惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

濃州余談⑱


細川藤孝は、その折々の出来事に対して、狂歌を詠んでいます。荒木村重
有岡城を脱出した後の、信長による残された荒木一族、家臣に対する仕
置きの様子をこう詠んでいます。

荒木殿 国ヲバ人ニ クレハ鳥 アヤシク見ユル 機物ノ袖

残された侍女達百二十二人がまず尼崎において、磔に処されました。この刑
罰は始めは、罪人を板の上に張り広げ、釘でうちつけ、石を投げたり、刀で切
り刻んで殺しましたが、この頃からより見せしめの要素が加わり、磔柱に縛り
つけ、多くの人が見物できるようにと変化しました。

侍女の幾人かは、子供を抱いたまま、共に鉄砲や槍で殺されたといいます。
ハタモノとは罪人が磔になった状態を指します。その様子が、春日神社の旗
の模様「春」に似ていることに由来しています。

荒木村重が、摂津国を信長方にくれてやるという意とクレハ鳥(呉服)を掛け
機物と磔の意であるハタモノとを掛けています。

凄惨な処刑が終了した後、侍女の小袖が、鳥のはばたきの様に、風にたな
びき、あやしげな様子を見物する人々に、印象づけたことがわかります。

忠興は、この時現地にいたようですから、藤孝はその様子を詳しく聞いた事
と思われます。その後五百人以上が焼殺されました。(光秀とその時代⑦)

この忠興という人は、よく人を殺す人物であったようで、光秀からあまり捕虜
を殺すなと、戒められています。(濃州余談㊽)



尼崎七松慰霊碑
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