惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

濃州余談⑳


斉藤利三の実兄である石谷孫九郎(頼辰)は、永禄九年頃たびたび山科
言継邸を訪れています。

最初は、中御門資胤のお供で訪れていましたが、季節の新茶や若鮎を送
って気に入られたのか、頻繁に言継邸を訪れ、雑談をしたり、雙六に興じ
ています。

この雙六は、二人が対座して二個の賽を竹で作った筒に入れて、振り転が
し、出た目の数だけ、雙六盤に並べた駒石を進め、早く相手の陣に入った
方が勝利するもので、賭け事でありました。

山科言継はこの時期、ほぼ連日賭け雙六をやっていて、最初のうちは石谷
ら悪友がくれば、 将雙六打之了 と書き残していましたが、連日の事でも
あり、省略されて 来如例(いつもの如し) とだけ書き残しています。

永禄九年八月二十七日付けの「言継卿記」の記述には

石谷孫九郎被来、土州長宗〇部相尋之、手日記七八ヶ條被尋

とあり、長宗我部元親が、頼辰と言継邸を訪問したことが、記されていま
す。

その訪問理由は不明ですが、この頃土佐国は公家一条氏が戦国大名化し
、盟主的存在として勢力を持つていたので、都の公家となんらかの関係を
持つ必要が長宗我部氏にはあったのかもしれません。

石谷頼辰と長宗我部元親の交際の深さと長さがわかります。

頼辰は明智氏滅亡の後、四国に渡り、長宗我部氏に仕えます。頼辰の娘
は元親嫡男信親に嫁ぎました。

天正十四年、戸次川での、島津家久率いる島津勢との戦闘で、頼辰は信
親ともども戦死します。


紀長谷雄と朱雀鬼との雙六勝負
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