惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常④)


長宗我部氏は、渡来人中の有力氏族である秦氏の末裔である、と伝えられ
ていますが確かな事は不明です。

鎌倉時代信濃国から土佐国へ移った秦能俊が長岡郡曾部郷に住み着き、
長曾我部氏を称したといわれます。古来より、土佐国国府はここにありま
した。この一族は神官の家柄で、禰宜をつとめ、国司一条氏のもとで、神社を
を管理しています。

長宗我部元親は、「一芸に熟達せよ。多芸を欲張る者は巧みならず」と自らを
戒め、軍事に徹し、土佐国を統一しました。

しかし土佐国は耕作する土地が少なく、家臣となった武士に恩賞や土地を与え
るために、更なる領土拡張にのりだし、三好氏、香川氏、河野氏との戦いに勝
利し、四国統一をなしとげました。

織田信長と対立し、その討伐軍が渡海する直前に本能寺の変が起き、危機を
脱しますが、天正十三年、羽柴秀吉軍との戦いに敗れ、その配下となります。

天正十四年、秀吉の九州征伐に従軍しますが、戸次川の戦いで、嫡男信親が
戦死します。悲嘆にくれた元親はその後、人が変わり、精彩をかいた行動が多
く、長宗我部氏滅亡の遠因をつくりました。

元親亡き後、信親弟盛親が跡を継ぎますが、あまり有能な人間ではなかったよ
うで、統率力がなく、情勢判断を見誤り、関ヶ原の戦い後改易となり、領地を失
います。

浪人となった、盛親はその後、豊臣方の誘いに応じ、大阪城冬、夏の陣に参加
しますが、落城の後、捕らえられ六条河原で斬首され、長宗我部氏は完全に滅
亡します。

慶安の変由比正雪の乱)の首謀者の一人、丸橋忠弥は盛親の側室の子であ
ったといわれます。


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