惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常⑤)


天正十年、四国長宗我部氏討伐軍の中に、副将として織田信澄がいました。
信澄は幼名を坊丸といい、信長の実弟信行の嫡男として生まれます。

信行は二度にわたり、信長打倒の企てを起こしますが、柴田勝家の裏切り
により事が露見し、謀殺されます。坊丸は信長実母土田御前の、助命嘆願
により殺される事なく、勝家のもとで、監視されながら養育され成人します。

信長の常人と異なるところは、この信澄を織田一門として取り立て、評価し
ます。信澄は明智光秀の娘を娶り、織田家中での存在感を増します。

信澄は光秀の丹波平定戦に加わり、軍事面での力量も発揮しています。
有岡城開城時の城受け取り等、重要な局面に登場し、信忠、信雄らと織田
家の第二世代のリーダーを形成していました。

心優しいところもあったようで、丹波戦の疲れで発病した光秀を、坂本城
で出迎え見舞っています。

東大寺での信長による蘭奢待切り取りの時は、勝家とともに参加し立会い奉
行に命じられています。

本能寺の変直後、大阪にいて、光秀への同心を疑われ、信孝らの手勢により
討ち取られ、その首は堺に晒されました。

光秀には、信長亡き後、織田家の当主に、信澄を据える考えは当然あったと
思われますが、信澄に、どのような考えがあったかは闇の中です。

しかし山崎の戦いに、信澄の家臣が多数参加している事を考えれば、信澄が
光秀側の行動を、生きていれば選択した可能性は大きいでしょう。

いずれにせよ、父を殺され、父を殺した叔父の庇護で成長し、舅がその叔父
を殺し、自らは従兄弟に殺害され、妻は舅の敗死後、自害に追い込まれると
いう戦国時代でも類をみない、複雑な人生を生きた人であったことは確かで
す。

土田御前は信行を溺愛し、この孫も可愛がったことでしょう。本能寺の変で、
信長とこの孫を同時に失い、悲しみに暮れたことと思われます。
(光秀と信長③)


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