惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常⑥)


天正六年八月、松平家康とその嫡男信康の対立は決定的なものとなった。

家康は大軍を率いて、浜松から岡崎へと進みます。その報を聞き、信康は
岡崎から大浜へ退避し、抵抗の意志のないことを示します。

これでもって信康追放が完了したとして、信長側近堀秀政あて書状を送り
ます。

種々御懇之儀、其段御取成故侯、忝意存侯、仍三郎不覚付而、去四
日岡崎追出申侯、---

           八月八日   堀久太郎殿   家康        

その後、遠州堀江城に信康を閉じ込めます。二十九日、正室築山殿を殺害
し、九月十五日、信康を自害に追い込みます。

この出来事も謎の多いものですが、政治的な対立が根底にあったと思われ
ます。三方が原での武田軍との戦いは、家康側の完敗に終わりました。

その時、織田の援軍を率いていた、佐久間信盛は戦わずして、戦線を離脱
します。織田氏に対する不信感は増大したと思われ、そういう考えを持つ家
臣が、信康配下に多かったのでしょうか。

信長はその後、佐久間信盛を突如追放します。信長の元に戻った愛娘、信康
正妻五徳の顔をみると、信盛に対して怒りがこみあげてきたのでしょうか。信
盛が戦っていれば、信康事件は起きなかったという思いがあったのでしょう。

信長らしい執念深い行動です。

家康は正妻と嫡男を殺害し、信長は実弟を殺し、謀殺の類は枚挙に暇があ
りません。秀吉は、秀次を殺し、権力基盤の安定を図ります。

とんでもない悪業の数々で、光秀など可愛いほうだと思えるのですが、歴史
は勝者のものであり、敗者は汚され歴史の闇に葬り去られます。

三方が原での敗戦後の家康
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