惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常⑦)


信長公記」によれば、天正八年八月、大阪に着いた信長は、佐久間信盛
対して、十八ヶ条からなる折檻条を自分でしたため、松井長閑らに信盛のも
とへ持参させ、遠国への退去を命じます。

「佐久間軍記」はこう記しています。

信長公大阪御進發、城中ヲ見給。其後以一書ヲ、佐久間信盛父子遣テ曰。
及多年兵ヲ曝シ、衆ヲ労シテ功ヲナスコトナシ。急天王寺ヲ可出汝ヲヤウニ
被仰付、御運モスヘニナルカトノ仰也。信盛、信勝不及陳謝熊野二籠居ス。

信長は続いて京へ登り、林秀貞安藤守就父子、丹羽右近に遠国への追
放を命じます。

佐久間信盛は、信長、信行の家督争いには、一貫して信長側に与し、軍事
面においては、織田家の主要な戦いに参加し、信長の領土拡張戦に貢献し
、吏僚としても有能であり、又調略活動にも秀でたものを持っていました。

信長躍進の影の立役者であった人物である事は疑いなく、その信盛を信長
はあっさりと捨て去ります。

折檻条の内容は、あの信長が本当に記したのかと思えるほど、稚拙でまとま
りのないものです。信盛の三十年にわたる功績を無視し、三方ヶ原での戦線
離脱を持ち出し、その行為に激怒しています。

信長のこの行為の原因には、本願寺との抗争が一段落し、今後の織田領国
内における、新たなる管理体制の構築構想があるといいます。

古参重臣を遠国へ左遷し、織田一族と側近を畿内や主要地域に配置しようと
する信長のもくろみに、信盛は意を唱えたのかもしれません。

いずれにしろ、信盛に対する、信長の仕打ちは苛烈すぎたと言わざるをえま
せん。