惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

濃州余談㉒

 

大溝城は、天正六年、明智光秀の縄張りにより、織田信澄が、磯野氏居城

跡に築城しました。

光秀は築城の名人であったといいます。この城も坂本城同様琵琶湖とその
内湖を、巧妙に取り込んだ水城でした。

光秀がどのようにして築城技術を身につけたかは定かではありません。
光秀は天正九年、大和郡山城の修築の監視に訪れており、光秀がこの方
面に優れた能力を持っていたことをうかがわせます。(光秀と信長④)

築城の名人であった松永久秀同様、大和国の寺社系の建築技術者と交流
があり、幕府内でそのような役職にいたのかもしれません。

奈良奉行妻木頼保は、光秀正妻煕子の出身である妻木氏の出であり,東
大寺大仏殿改修に功績がありました。又頼保の父頼熊も東大寺二月堂の
再建に尽力しています。

明治時代の著名な建築家妻木頼黄もこの一族であり、妻木氏をはじめ明
智一族には建築技術者としての資質があったのかもしれません。


大溝城跡
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