惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常⑪)


天正七年八月、光秀は赤井忠家の籠る黒井城を落城させます。これによ
り光秀の丹波平定戦は完了します。

ここに至るまでの道程には厳しいものがあった。天正四年一月の黒井城
攻めでは、波多野一族の離反にあい、光秀軍は大敗を喫します。

かろうじて都に逃げ込み、坂本城へ帰還します。その後二月に再び丹波
へ向かいますが、成果を得られず帰還と同時に、本願寺との戦闘に向か
います。

五月には、光秀は病に伏せます。かなりの重病であったようで、信長が
その様子を吉田兼見に訊ねています。

完治したのは、九月、曲無瀬道三が治療の為に、坂本に滞在した以降
のようでかなり長く療養していたことがわかります。

その後、光秀は丹波国人に対する調略活動を開始し、苦労ののち平定
を成し遂げます。

下の光秀書状は、黒井城落城後、愛宕山威徳院に送ったもので、戦勝
祈願成就のお礼に、二百石を奉納する、と記されています。愛宕百韻の
舞台となる威徳院ですが、光秀との交流の深さがみてとれます。
明智資料⑳)


光秀書状
イメージ 1