惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常⑫)


(光秀とその時代㉓)に述べたように、信長は細川藤孝に、足利義昭
からの離反を評価し、桂川西岸の土地を与えます。

この時の、信長の書状の中に、一職という言葉が始めて現れます。

この一職とは、地域的支配をまかされた、織田家家臣がその地域の
農民を兵士として徴兵する軍事統率権、租税等の土地支配権、裁判
権を一元化して統括するという意味で、その統治体制を一職支配とい
いました。

その後、旧浅井領を秀吉に、摂津を荒木村重に、山城、大和を原田直
政に、信長は一職支配を委ねます。

この地域支配体制は、寺社、朝廷、国人領主等の複雑な土地所有関
係の上に、織田氏の強力な軍事力を背景に構築されたものであり、秀
吉、家康のそれと比較すれば、未成熟なものでした。

光秀は、坂本領、そして天正七年に丹波の一職支配を委ねられます。
八上城には明智光忠、黒井城には斉藤利三、福知山城には明智秀満
を城代として置き、光秀が丹波を支配する体制が構築されました。

光秀の丹波支配は順調に推移し、明智軍法にみられるように、石高制
による軍役、知行役賦課を実施し、丹波の支配整備が進み、安定した
領国経営が行われていたことがわかります。

光秀の丹波配は短期でしたが、光秀の善政を伝える逸話が多く残り
、光秀の行政能力の高さを、うかがい知ることができます。


福知山城
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