惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常⑮)


山科家は京都山科荘を家領とし、羽林家の家格であった。代々朝廷の
財政を担当する家柄であり、言継も又その最高責任者である内蔵頭で
ありました。

この時代、朝廷の財政は困窮の極みにあり、言継は資金作りの為に全
国を駆け巡ることとなります。
織田信長の父である、尾張国の信秀の所にも顔をだし、資金獲得に成
功しています。

天文十七年、十三代将軍足利義輝により山科家の所領山科荘は、幕
府の御料所(直轄地)にされてしまいます。これには政治的な背景が
あった考えられますが、言継は前関白近衛稙家に頼み込み、なんとか
山科荘を回復しています。

義輝が、三好三人衆らに殺害されると、三人衆に擁立された足利義栄
の将軍宣下の使者となり、摂津国へ向かっています。

しかし、信長に支援された足利義昭が上洛すると、一転して困難な立場
におかれ、自宅に謹慎しますが、許されて今度は義昭の将軍就任の手
伝いをさせられています。

朝廷の資金調達をはじめ、朝廷の運営に苦労した所があったようです。

有職故実に通じ、多芸な人であった言継は、1527年から1576年の間五
十年にわたり、日記を残し、散逸した部分も多くありますが、この人物
のおかげで、この時代の都やその周辺の、公家や人々の暮らしの様子を
、克明に知る事が出来ます。

大正四年、朝廷に多大な貢献があったとして従一位贈位されます。


上京 清浄華院
イメージ 1