惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常⑯)


各時代を担った政権内部には、調整役として重要な位置を占める人々が
存在しました。
豊臣秀長足利直義、そして現代でも本田宗一郎のもとには、藤沢武夫
が名補佐役としていて、その企業躍進に貢献しました。

豊臣秀長はその代表的な人物で、金銭への執着は人一倍強い人でした
が秀吉にとって変わろうとする野心はなく、豊臣政権の安定化に尽力しま
した。彼の功績は、その調整能力の高さによるものでした。

例えば、石田三成ら、近江派吏僚の政権運営を支持しますが、尾張以来
の、加藤清正福島正則武断派の前では三成らを罵倒し、彼らは溜飲
を下げます。秀長は人心を把握していたのでしょう。

しかし、秀長の死により、文治派と武断派の反目は一挙に高まり、関ヶ原
戦への伏線となり、豊臣家滅亡へと結びつきます。

織田政権内には、秀長に相当する人物として、佐久間信盛がいました。
信盛は、家督争い時から、一貫して信長擁立を支持し、信長の政権確立
とその躍進に貢献しました。

天正元年、撤退する朝倉勢に対し、信長は追撃戦を敢行します。しかし
織田軍先手勢の多くが、その速さからおくれます。

信長はその遅滞に激怒します。よほどひどい事を信長は口にしたのでし
ょうか。信盛は信長の前で、家臣の信長への忠勤を述べ、信長を諌めま
す。信盛は、その後も、信長の主要な戦闘に参加し、軍功を重ねていき
ます。

天正八年、信盛は突如信長により、追放されます。
前述の戦での遅滞の事も持ち出し、更に口答えして自分に恥をかかせ
たと書き綴ります。(光秀とその日常⑦)

又信長はこう書いています。「信盛は、自身の思慮深さを自慢し、穏や
かなふりをして、綿の中に針を隠したてたような怖い扱いをする。」
信盛の温和な性格や思慮深さが、逆に伝わり、戦いにおいて果敢であ
った信盛像が浮かび上がります。

このような人物だからこそ、長きにわたり信長は、信盛を信頼し、重用し
てきたと思います。
信盛追放の実際の理由は、よくわかりません。それは信長の内面の闇
が、もたらしたものかもしれません。

織田家中は、その内部は色々な考えを持つ人で構成されており、信長と
いう類稀な行動力と先見性を持つ、軍事天才の存在と指導力により、そ
政権運営がなされていました。

その政権基盤は脆弱であり、信長一人の天才的資質の上に成り立ち、
それは常に崩壊の危機と、となりあわせでした。

信盛という、織田家内の調整役を失い、織田家内部の領国経営をめぐ
る確執と不信感が、織田家内の各武将の中に、芽生え始めたといえる
かもしれません。


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