惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常⑭)


「言継卿記」の永禄十三年(元亀元年)二月三十日(旧暦)付けの日記
に、信長上洛の記載があります。

信長は岐阜城を出発して、申刻都に到着します。

織田弾正忠信長申刻上洛、公家奉公衆、或江州或堅田、坂本、山中
等ヘ迎二被行ーーーーーーー
明智十兵衛所ヘ被付了。

信長が長旅の疲れをとるため、光秀の京屋敷にひとまず入り、宿泊した
ことが記されています。信長はお神酒を御所に献上し、翌日参内してい
ます。

同年、七月四日、信長は六月二十八日の姉川合戦の後始末を終えて
同じく申刻上洛します。

申刻織田弾正忠信長上洛、四五騎ニテ、上下三十人計ニテ被上、
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明智十兵衛所ヘ被行了。

浅井朝倉連合軍を打ち破った信長が都に凱旋します。この時は七日ま
で光秀の屋敷に滞在したようです。

このころ光秀はすでに、都にかなり大きな館を持つていたことがわかり
ます。信長の他に、馬廻り衆ら、三十人ほどが宿泊できる広さがあった
ようです。十兵衛所と山科言継が言っていますから、そこは公的な場所
ではなく光秀の私邸であったと考えられます。

慎重な信長が宿泊した屋敷でしたから、堀をめぐらし、防御機能を備え
武家屋敷であったと思われます。