惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常⑰)


織田信長による、佐久間信盛追放の主要な理由である、石山本願寺勢との
戦闘怠慢については、疑問が多い。

信長は、中世を代表する本願寺教団に戦いを挑み、それに勝利し近世への
道筋を示したといわれます。

しかしこの戦いの本質はどこにあったのでしょうか。

足利義昭を奉じて上洛した信長は、義昭とともに三好三人衆との戦いにのぞ
みます。その時、本願寺側は突如信長勢に攻撃を仕掛けます。

本願寺三好三人衆とは、密接な関係にあり、本願寺側からの開戦でした。
この戦いは和解しますが、本願寺は、今度は足利義昭と連携し信長に再度
戦いを挑みます。

本願寺は、越前、長島等の一向衆に蜂起を促し、壮絶な戦いに突入します。
この戦いでは、多くの織田一門が戦死しています。

しかし両一揆が織田勢により、殲滅制圧されると、本願寺側は和議を申し入
れ信長はそれを許します。信長の本願寺に対する強硬姿勢が強調されます
が、戦いを仕掛けたのは本願寺側にあり、その後も毛利氏と結んだ本願寺
側に、信長は根気強く対応しています。

足利幕府と本願寺は、加賀国の例をみればわかるように、その領国支配に
おいて密接な関係にあり、戦国時代は一体化していました。

細川藤孝の父、幕臣三淵晴員はその取次ぎの職にありました。しかし幕府
の弱体化につれて、逆に本願寺はその領域支配を強めていきます。

信長の領国支配が拡大していけば、本願寺勢力との摩擦が発生しました。

信長は、伊勢長島、越前での一揆殲滅戦を展開しますが、基本的には本願
寺との和議に何度も応じ、融和政策をとります。

石山本願寺勢との戦いも、その延長上にあり、決定的な戦いを仕掛けず、本
願寺から譲歩をひきだす為に、軍事的圧力を掛け続けるのが狙いであったと
思われます。

織田勢の圧倒的な軍事力を持ってすれば、その制圧も可能であった思えます
が、それを避け調略を行い、天正八年、本願寺側の石山本願寺退去時には、
その内部はすでに分裂状態にありました。

佐久間信盛は信長の方針に従って、長陣を戦い抜いたともおもえるのですが
、信長の信盛に対する仕打ちは厳しいものでした。