惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

濃州余談㉘

 

親鸞を開祖とする浄土真宗は、戦国時代、日本歴史上稀に見る、戦闘的宗教

集団を形成していました。

この宗派の特質として、僧侶の肉食、妻帯を許し、講とよばれる組織を作り、
人々が団結する場所を与え、その結束力を高めました。

武力による自己宗派の維持は、親鸞の他力本願の教えからは逸脱していまし
たが、山科本願寺の焼き討ちなどもあり、その武装化門徒全体が志向する
ものとなっていきました。

信長との対立は、教義の違いがもたらす宗教的対立ではありませんでしたが、
本願寺側は、信長が保護するキリスト教畿内一円でのひろがりに、極めて強
い警戒感を示し、その排除をもくろんでいました。

松平家康もこの本願寺勢との戦いに苦しんだ一人でした。三河国で起きたこの
一揆は家康家臣団の半数が参加するものとなり、家康は苦境に陥ります。

その原因は、家康父広忠が門徒側に与えた、守護使不入の権利をめぐる争い
にありました。寺側は税などを免除されていましたが、その変更を求めた家康
側と戦闘が発生し半年間継続しました。

戦いは家康側の勝利に終わりましたが、家臣団の分裂は深刻でした。家康はそ
の後戦いの際にたてる自らの馬印を、浄土宗の教えから 「厭離穢土欣求浄土
とし、門徒家臣に配慮し、家臣団の団結を図りました。


姉川合戦図屏風
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