本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常⑱)
その直後この一大城塞は焼失します。
家が越前、加賀を与えられ織田政権の一職支配がいきわたります。
と、織田を主、北条を従、とする同盟関係を締結します。
まれました。
伊達氏をはじめ奥羽の領主の大部分は、織田政権に対して、使者をおくり
、鷹や名馬を信長に献上して、友好関係を求め、その軍門に降る事を表明
していました。
この時点で織田政権に敵対する勢力は、東は武田氏、上杉氏、西は毛利
氏と、新たに敵対勢力となった長宗我部氏がありました。
九州では、島津氏の不穏な動きがありましたが、織田政権に対しては友好
的であり、信長の停戦命令に従っています。
この年は、信長の武辺道が完結し、その威光が日ノ本の隅々までいきわた
る年となるはずでした。
を開始します。名門武田氏の最後は哀れなものでした。
残った上杉氏も、孤立無援な状態となり、その最後は時間の問題でした。
西の、毛利氏は秀吉の調略により、その内部崩壊はまじかでありました。
又、長宗我部氏も、戦わずして軍を引き、信長に許しをこう状況であり、
両氏ともに、信長の出陣と同時に、武田氏同様崩壊したことでしょう。
このような状況のなか起こったのが、光秀による本能寺での、信長襲撃で
ありました。