惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常⑱)


天正八年閏三月、織田信長本願寺十一世顕如との間で、和議がまとまり
ます。この和議に反対する顕如長男教如も八月には、石山本願寺を去り、
その直後この一大城塞は焼失します。

こうして本願寺は織田政権に屈服し、その支配下に入りました。

同年播磨国の別所氏が滅び、播磨、因幡、淡路と織田氏の分国化がすす
み、北陸方面では、佐々成政越中を、前田利家能登を、そして柴田勝
家が越前、加賀を与えられ織田政権の一職支配がいきわたります。

関東では、天正七年、北条氏は松平氏と同盟を結び、翌八年には織田氏
と、織田を主、北条を従、とする同盟関係を締結します。

これにより、松平氏に続いて、北条氏も実質的に織田氏の領国に組み込
まれました。

伊達氏をはじめ奥羽の領主の大部分は、織田政権に対して、使者をおくり
、鷹や名馬を信長に献上して、友好関係を求め、その軍門に降る事を表明
していました。

この時点で織田政権に敵対する勢力は、東は武田氏、上杉氏、西は毛利
氏と、新たに敵対勢力となった長宗我部氏がありました。

九州では、島津氏の不穏な動きがありましたが、織田政権に対しては友好
的であり、信長の停戦命令に従っています。

天正十年、安土城における参賀の儀で、信長は家臣に発破を掛けます。
この年は、信長の武辺道が完結し、その威光が日ノ本の隅々までいきわた
る年となるはずでした。

天正十年二月、織田軍は、甲斐武田氏に対し、朝敵の汚名をきせ、討伐戦
を開始します。名門武田氏の最後は哀れなものでした。
残った上杉氏も、孤立無援な状態となり、その最後は時間の問題でした。

西の、毛利氏は秀吉の調略により、その内部崩壊はまじかでありました。
又、長宗我部氏も、戦わずして軍を引き、信長に許しをこう状況であり、
両氏ともに、信長の出陣と同時に、武田氏同様崩壊したことでしょう。

このような状況のなか起こったのが、光秀による本能寺での、信長襲撃で
ありました。