惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人⑪)


江戸時代には、士農工商の身分制があったといわれるが、これは間違い
で、身分は武士と武士以外のふたつに分かれ、これらの外にエタ、非人が
あり、武士上中層部のみが固定化され、その他は流動的でありました。

農民が商人となり、所払いとなった農民、商人はエタ、非人へと転化し、エ
タ、非人も財力を持てば、商人、工業従事者へと転化していきました。

実際的にも、江戸時代末期には、各藩の財政は大商人の財力に依存し、
彼らは明治維新をへて財閥形成の原点となりました。

信長、光秀の時代は更に流動的で、武士上中層部すら流動的であり、農
民と武士の境界は、明瞭なものではありませんでした。

秀吉はその時代を代表する人物で、名主の子であるが、没落し、非人の
群れと関わりを持ち、信長の配下となり、武士最上層を突き抜けて、貴族
最上位の関白まで登りつめます。

この秀吉が検地、刀狩りを実施し、武士と武士以外の、二つの身分を作っ
たのは、皮肉な現実でした。

江戸時代の武士はその大部分が、農民の上層部である、地侍がその出身
母体であり、清和源氏桓武平氏藤原氏等の流れを汲む、正統的な武士
は極めて少数でした。

これは、江戸幕府が、高家制度を創設したり、系図を自己申告で提出させて
いることからも窺えます。(明智資料㉒)

徳川氏自体が系図改竄の総本山であり、各大名とその家臣は、系図作成業
者に多額な報酬を支払い、それらしい系図をでっちあげ幕府に提出しました。