惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人⑩)


信長は身体頑強な人であった。記録に残されている病歴には、頭痛がある
ぐらいで、他は見受けられません。

上京して、御所へ参内する予定だったが、信長は頭痛がひどく取りやめにな
ったと「言継卿記」内に記されています。

さすがに、子供の頃から、水練、乗馬と鍛えていただけの事があります。
頭痛というのも、癇癪もちの信長らしく納得できます。

光秀は、信長と比較してよく病気になっています。(光秀とその日常⑪)

生死の境をさまよった事もあり、信長は心配して病状を訊ねています。光秀
は信長ほど丈夫ではなかったのでしょう。

光秀嫡男光慶も、光秀の戦歴を考えれば、光秀に同行しての戦場での働き
があってしかるべきですが、全く記録されておらず、他の武将の嫡男と比較
して不自然さがあります。

光慶は光秀主催の連歌には名をつらね、愛宕百韻にも参加し記録に残っ
ています。(光秀とその家族②)

戦場での槍働きには、耐えられる体ではなかったかもしれません。