惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人⑬)


誠仁親王は、正親町天皇の第五皇子であったといわれる。猶子の多い
正親町帝の子の中で、実子といわれるが確証はありません。

誠仁親王の第五皇子、五宮は信長の猶子となり、信長と誠仁親王の関
係性の深さを窺わせます。

本能寺での戦闘終了後、明智軍は信忠のいる妙覚寺を包囲し、激戦と
なります。信忠はこの時、妙覚寺から誠仁親王の住居である二条御所
へと移動します。(明智資料⑲)

信長の都での常宿であり、恐らく武具等の備蓄のある妙覚寺から、防
禦性の低いと思われる皇族の住まいに、何故移動したかは不明ですが、
この時誠仁親王は、私も腹を切るのかと、織田方に問いただしたといい
ます。

誠仁親王は武を好む人であったといいます。このあたりが信長が次期
天皇として目をつけた理由かもしれません。

誠仁親王天正十四年七月死去します。その最後の様子を「多聞院日
記」はこう記しています。

親王崩御云々、疱瘡ト云ハシカト云、一説ニハ腹切御自害トモ云々、
御才参卅五才也ト。自害ナラハ秀吉王ニ被成一定------ー
浅猿々々、女御ヲ誰ソ盗故ト云々。

誠仁親王が、切腹して自害したとの噂が、奈良まで届いていた事がわか
ります。英俊も何か書きたくて、うずうずしているさまが、文面から伝わっ
てきます。

信長の時代、朝廷内は必ずしも一枚岩ではなかった、と思われます。
信長と誠仁親王を中心とする朝廷内の勢力は、正親町帝に退位を迫りま
すが、信長の真意と朝廷の将来に、不安を抱く正親町帝はそれに抵抗し
ます。

信長が光秀に討たれ、その影響力が朝廷内から除去されると、新たなる
天下人秀吉と結んだ、正親町帝側の勢力が、誠仁親王を圧倒していきま
す。

その過程の中で、誠仁親王は非業な死を遂げたのではとも思われます。
誠仁親王の第一皇子和仁親王は、父の死後すぐに正親町帝の猶子とな
り、後陽成天皇となります。
信長の猶子となった五宮は、仏門に入り法親王となります。

後陽成天皇は、父誠仁親王に陽光太上天皇の尊号を送ります。
天皇に即位できず、非業な死を遂げた父の魂を鎮魂する意味合いが当然
あったと思われます。

誠仁親王が眠る月輪陵
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