惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人⑫)


織田氏の領国支配の実態は、よくわかっていません。複雑な土地支配形態を
一元化し、信長から支配権を委ねられた武将が、強力な軍事力を背景にして
、税の徴収権、裁判権、徴兵権を行使したのでしょうが、その実態はいまだ闇
の中です。

軍事面においては、その軍事力の中核は、秀吉軍、光秀軍そして勝家軍であ
り、それに同盟軍としての家康軍が加わります。

これは、秀吉が山崎で光秀を破り、続いて勝家を滅ぼし、家康を制圧して、天
下統一をなしえたことからもわかります。

戦国最大規模の織田軍団は、こうして秀吉の指揮下に入り、長宗我部氏、島
津氏、北条氏を制圧する中で、豊臣軍団へと変質しました。

信長は、毛利氏との戦いに家康の参戦を求めます。家康の重臣との上洛には、
戦闘分担、動員数、開始日時等の打ち合わせの意味合いがありました。
秀吉、光秀、家康が指揮する織田軍の中核が毛利に対峙します。

そして、おそらくこの軍は、武田討伐時の太政大臣近衛前久同様、誠仁親王
を錦の御旗にしての、親征となったことでしょう。

勤皇の志の篤い毛利家は戦わずして、崩壊する可能性が極めて高かったと
思われます。

恭順の意を示す、長宗我部氏は土佐へと撤退中であり、惟住長秀は四国から
、惟任光秀は毛利領から、次なる征服地九州へと、渡海したことと思われます。