惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人⑯)


武功夜話」内にある、「弘治二年美濃可児郡明智城出入りの事」について
その内容を要約して述べます。

東美濃に関して、織田信秀は野心をもっていました。可児郡の土田村には
冶左衛門を当主とする土田家という古くからある家があり、山に砦をつくり、
信秀と誼を通じていました。

信秀は冶左衛門の娘を正室とします。信長の生母で土田御前といいます。
可児郡は古来より土岐氏の所領でしたが、斉藤美濃守はこれを横領しま
す。これを不服とする地侍は、土田氏とともに織田信秀に通じます。明智
入道もその一人でした。

それに対して、斉藤美濃守側は関の長井氏を中心に五千ばかりの兵で
可児郡に押し寄せます。弘治二年九月の事でした。

米田の住人肥田玄蕃は、冶左衛門の息子甚助、可児才右衛門とともに、
犬山の織田信清の所へ、援軍の要請に駆け込みます。
信清は、信長に変事を通報し、前野党らに援軍を命じます。この日は雨で
したが、善師野に午の上刻頃到着しました。

犬山からの援軍は前野党中心に二百六十名程度、明智勢は明智入道以
下三百五十名程度、合計六百名程度で明智城に籠ります。
明智入道の倅明智兵庫は、屈強な兵を率い、城外にでて戦いますが、多
勢に無勢で城内に押し返されます。

一両日持ちこたえれば、織田の援軍がくると堪えますが、心細く、敗色が
濃くなります。座して死を待つよりはと、森勘解由は、冥土の旅の先頭仕
らんと叫び、城外に討ってで戦死します。

援軍の前野党らも森に続き、花々しき戦いののち、前野五郎九郎、肥田玄
蕃、可児才右衛門らは戦死し、生駒八右衛門、前野又五郎、土田甚助、肥
田孫左衛門らは、手負いにも関わらず、裏山へ登り、犬山へ帰還します。

皆戦い慣れしたものばかりであったのですが、生きた心地がせず、後々ま
明智退きとして、語り草となりました。

これが要約ですが、明智氏の滅亡には触れていません。「武功夜話」自体
の問題性は別として、「明智軍記」とともに、この長山城の攻防戦で、明智
宗家が可児の所領を、喪失したことがわかる記述となります。(光秀とその
日常③)(光秀の出自と前半生③)