惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人⑰)


明智軍記」内の、長山城落城の記述を要約すると、以下のようにな
ります。

その頃、義竜の家臣の中に明智光安がいた。明智頼兼の七代目と
なり、明智光継の次男で兄光綱の死後、東美濃明智という所に
居城をもうけていました。

義竜の信頼厚く、その結びつきは深かった。しかし竜興が義竜を殺
害すると、それを怒り城に籠った。これを聞いた竜興は、長井隼人
佐を大将に、遠山主殿助、舟木大学らに総勢三千名で明智城を攻
撃させます。弘治二年八月の事でありました。

光安側は総勢三百八十名ほどであったがよく戦った。しかし兵の多
くが討たれ、最後に光安は弟光久とともに、敵勢に討ってでて戦死
しました。

この時、光綱の子光秀も共に討ち死にしようとするが、光安は光秀
の鎧の袖を掴んでこう言いました。

「私はここで死ぬが、貴方は明智の嫡男であり、生き延びて家名を
再興して欲しい。それが先祖への孝行である。私の息子の光春と甥
光忠を連れて逃げて、明智家を再興して欲しい」

光秀は泣く泣く城を抜け出て、郡上郡を経て、越前の穴馬という所へ
落ちのびていきました。

明智軍記」らしく、義竜、竜興に関する記述は間違っています。
明智光安が、「武功夜話」での明智入道となるのでしょう。同様に光
春が明智兵庫ということになるのでしょうか。

恐らくは、「明智軍記」と「武功夜話」の、この長山城落城に関して
の記述には、原典があったのでしょうが、長い時間の中で喪失した
のかもしれません。

この戦闘の中に、光秀がいたかどうかはわかりませんが、明智宗家が
弘治二年の段階で、実質的崩壊を遂げた可能性は、高いのではないで
しょうか。