惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人⑮)


明智氏の名前が歴史上に現れるのは、「太平記」の中の第二十五巻
「住吉合戦事」において、明智兵庫助が楠正行と合戦したとの記述が
最初となります。

同書には、第二十六巻「四条畷合戦事」、第二十七巻「御所囲事」、第
三十四巻「新将軍南方進発事」の中で、明智三郎、明智下野入道等の
名前で登場しますが、これはすべて同一人物で、この人が明智家の始
祖、明智頼兼となります。

頼兼は土岐氏惣領頼康の弟になります。

以前明智氏関係の系図書は、信頼性が低いものとされていましたが、
近年の研究により、その評価が見直されてきています。

明智氏土岐氏の被官となり、侍所において、都の軍事、警察活動に
従事します。

土岐政房が、足利義尚の六角氏討伐に加わった時、明智氏はその四
番衆として出陣しています。

応仁の乱では、明智氏は政房の父土岐成頼のもとで西軍として参加し
ますが、関係の深い東軍の細川氏との戦闘を避けて、無断で領国に軍
を引き上げさせます。

これには、政房と成頼の対立も、その一因にあったかもしれません。

このように明智氏は、室町初期の南北朝時代土岐氏より派生し、宗家
土岐氏惣領と行動をともにし、在京していたことは確かでしょう。

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