惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人⑱)


陸軍大臣阿南惟幾は、本土決戦を主張するが受け入れられず、ポッダ
ム宣言受諾を返電する直前に、陸相官邸で切腹します。

介錯を拒み、二時間後に絶命する壮絶な自刃でした。

惟幾の六男惟茂さんは元中国大使で、以前上海へ向かう鑑真号の
船上でお見かけした事があります。
阿南家には、六人の男子があり、すべてにその名前に、惟の一字が
つけられています。

阿南氏は豊後国の氏族であり、大神惟基の次男惟季が、阿南郷に
住居を構えた事にその名の由来があります。九州を代表する武家
名門でした。

明智光秀が名乗った惟任という姓は、現在では、愛媛県宇和島市
辺でみうけられ、二百名ほどの惟任さんが暮らしておられるそうです。
この惟任さんもその先祖は、豊後の大神氏に繋がると聞いたことがあ
ります。

惟任氏は九州の名族といわれています。しかし丹羽長秀が名乗った
惟住氏同様、光秀、信長の時代に有力氏族として存在していた事を
示す確実な資料はなく、それ以前も、その名前の存在さえもが不確
実です。

豊後の大神氏は、大和国の大神氏が豊後介に任じられたことにより、
この地に根を張りました。筒井順慶の筒井氏はこの大和大神氏を祖
としています。

豊後大神氏には、阿南氏を始め、緒方氏、戸次氏、由布氏等三十以
上の氏族が派生していますが、惟任氏の名は見られません。

この大神氏の特徴として、阿南氏にみられるように、緒方氏、戸次氏
らにも、その名に惟の一字がつけられています。

肥後国阿蘇神社大宮司家の阿蘇氏は、日本最古の系譜を持つ家
系であると言われています。

阿蘇氏は宇治姓を名乗っていましたが、大宮司を独占するなかで、阿
蘇姓を名乗ります。

この阿蘇氏も大神氏同様その名に惟の一字が入っています。大宮司
惟泰以来、天正年間に薩摩の島津氏に滅ぼされるまで続きます。
その後、加藤清正により、惟善に所領が与えられ、阿蘇神社大宮司
して復活します。

その後数代に渡り、惟の一字が用いられない事がありましたが、現在
に至るまで、阿蘇氏では惟の一字がその名に使われています。
恐らく、光秀の時代においても、この惟の一字は九州名門をあらわす
一文字だったのでしょう。

長篠の戦いで武田氏の脅威を取り除いた信長は、西方の毛利氏との
対決に臨み、その背後を脅かす意味で、九州の名族らしい姓をでっち
上げ、光秀と長秀に名乗らせたかもしれません。信長らしい心理戦で
す。(光秀と信長⑩)

それとも、従来どうり、惟任氏と惟住氏は滅亡した九州の名族だったか
もしれません。しかし両氏が誰もが知る九州の名族としたら、なんらかの
足跡を、歴史上に残しているのではとも思われます。

たしかに、惟任日向守光秀が信長を討ち果たしたのち、山崎の戦いで落
命することで、光秀の一族とみなされ、とばっちりを受けるのを恐れて
惟任の姓を捨てたとも考えられます。

では惟住の方はどうなるのかと疑問が残ります。又惟任、惟住両氏が大
神系の氏族であるならば、その特徴として、名前に惟の一文字がはいり
例えば惟任惟Oとなり、姓名の不自然さが否めません。

いずれにせよ、光秀はこの惟任の姓を使い続けます。この名前の持つ戦
略的意味をよく理解していたのでしょうが、そこには信長に仕える悲哀
さも見えて来ます。


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