惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人⑲)


織田家家臣の中に、明智光秀丹羽長秀以外にも、信長の命で、九州名
族の姓に、改姓した武将が二人います。

光秀と同時期に、簗田広正が別喜姓となり、別喜右近大夫を名乗ります。
広正は、桶狭間の戦いで一番手柄をたてた、政綱の子です。

もう一人は塙直政で、九州の名族といわれる原田姓に改姓し、原田備中
守直政と名乗ります。
直政は本願寺勢との、天王寺合戦で戦死します。(光秀とその日常⑳)

惟任、惟住、別喜、原田ともに、豊後大神氏に関係する名前であることは
確かですが、当時この姓を名乗らせることが、毛利氏ならびに九州の大名
に、どれほどの影響力を持ちえたかは不明です。

惟任姓を名乗る人は、現在愛媛県宇和島市周辺に、二百人ほどおみえに
なるそうです。又惟住姓の方も、四十人ほどが全国各地でお暮らしになっ
ているそうですが、現在その名の由来には確たるものがありません。

惟任氏は残存する資料の中では、その名を確認できませんが、惟住氏は
豊後大神氏関係の資料の中に、田尻氏、賀久氏、朝見氏らとともに記載
され、阿南氏とは別の系統を形成していますが、系図は存在せず、詳細は
不明です。

天正三年七月三日、「簗田左衛門太郎ハ別喜右近ニ仰セ付ケラレ」と
信長公記に記されています。

別喜という姓は、戸次(へつぎ)からきていると思われます。戸次氏は大
神氏でしたが、惟澄の時に子がなく、大友一門となり大友氏の系統とし
て家名を残しますが、大友宗家との関係悪化により没落します。

その後、戸次鑑連が現れ再興します。鑑連は改名し、戦国の猛将立花道
雪としてその名を残します。
戸次ではあまりにも直接的であるので、別喜という姓を、創作したのかも
しれませんが詳細は不明です。

九州の原田氏は名族大蔵氏の嫡流家であり、まぎれもない名門の家柄で
ありました。その起源は平安時代までさかのぼり、大神氏とは複雑な婚姻
関係を形成しています。
秀吉の時代まで生き延びますが、流れに乗れず衰退し、原田家嫡流は会
藩士として幕末を迎えます。

信長が、光秀らに改姓させた真の理由は不明ですが、対毛利戦を睨んだ
心理戦の一環である、との認識が妥当ではないでしょうか。

秀吉を猿に見たて、その風体を愛玩した信長が、その姓に、木下(猿は木
の下にいる)と与えたように、信長の天才的な閃きが、光秀らに改姓を命
じたのかもしれません。

しかしそれは以外と手の込んだものであったことは、そのネーミングから
一目瞭然です。あくまでも相手に届出なしの、無断使用ですから仕方の
ない事だったでしょう。それゆえに朝廷からのお墨付きを、もらう必要があ
ったのかもしれません。

木下秀吉
イメージ 1