本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史③)
囲攻撃します。
「信長公記」のなかに、防戦する面々の一人として、光秀の名が記されて
います。
「明智軍記」によれば、この戦いで光秀は、得意な鉄砲を操り、敵将薬師
寺貞春を撃ち倒したとありますが、これは全く裏づけのない話で、信用が
できません。
この戦いが、資料に登場する戦闘者光秀の初見で、これ以前となると「明
智軍記」内での、弘治二年の美濃長山城での初陣、そして織田仕官後の
伊勢平定戦の参加などの記述がありますが、上記同様信用の置けるもの
ではありません。(四人の天下人⑰)
「言継卿記」は、本國寺の戦いをこう記しています。
三好日向守、同下野入道釣竿、石成主悦助以下、今日悉本國寺取詰攻
討死云々、責衆死人手負数多有之云々
とあり、三好側は攻め切れず、この日は戦いが終了し、翌六日
三好日向以下悉七條越云々、自西池田、伊丹衆、北奉公衆、南三好左
京大夫取懸、左京兆鎧入之、従三方切懸、三人衆以下申刻敗軍、多分
討死云々、及黄昏之無殊沙汰
七条へ後退した三好三人衆方を、西から池田、伊丹勢、北から奉公衆、
南から三好左京大夫の軍が、三方から取り囲み戦闘が開始され、申刻
義昭側の勝利で戦いが終了しました。
岐阜に帰っていた信長は、この報せを聞くと、都まで三日の行程を二日
で駆けつけましたが、足利義輝殺害の時とは異なり、義昭軍は攻撃に
耐え、翌日には救援部隊と共に、野戦で三好三人衆方を包囲撃破して
勝利していました。
義昭はこの戦いに勝利したことで、自信過剰になったのかもしれません。
この戦い後、光秀は村井貞勝、日乗上人らと都の庶政にあたり、しばらく
戦いの場から遠ざかります。
本國寺城跡