惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史③)


永禄十二年正月五日、三好三人衆足利義昭のいる六条本國寺を、包
囲攻撃します。

信長公記」のなかに、防戦する面々の一人として、光秀の名が記されて
います。

明智軍記」によれば、この戦いで光秀は、得意な鉄砲を操り、敵将薬師
寺貞春を撃ち倒したとありますが、これは全く裏づけのない話で、信用が
できません。

この戦いが、資料に登場する戦闘者光秀の初見で、これ以前となると「明
智軍記」内での、弘治二年の美濃長山城での初陣、そして織田仕官後の
伊勢平定戦の参加などの記述がありますが、上記同様信用の置けるもの
ではありません。(四人の天下人⑰)

「言継卿記」は、本國寺の戦いをこう記しています。

三好日向守、同下野入道釣竿、石成主悦助以下、今日悉本國寺取詰攻
之、午刻合戦、寺外焼之、-----ーー武家、御足軽衆以下廿餘人
討死云々、責衆死人手負数多有之云々

とあり、三好側は攻め切れず、この日は戦いが終了し、翌六日

三好日向以下悉七條越云々、自西池田、伊丹衆、北奉公衆、南三好左
京大夫取懸、左京兆鎧入之、従三方切懸、三人衆以下申刻敗軍、多分
討死云々、及黄昏之無殊沙汰

七条へ後退した三好三人衆方を、西から池田、伊丹勢、北から奉公衆、
南から三好左京大夫の軍が、三方から取り囲み戦闘が開始され、申刻
義昭側の勝利で戦いが終了しました。

岐阜に帰っていた信長は、この報せを聞くと、都まで三日の行程を二日
で駆けつけましたが、足利義輝殺害の時とは異なり、義昭軍は攻撃に
耐え、翌日には救援部隊と共に、野戦で三好三人衆方を包囲撃破して
勝利していました。

義昭はこの戦いに勝利したことで、自信過剰になったのかもしれません。

この戦い後、光秀は村井貞勝、日乗上人らと都の庶政にあたり、しばらく
戦いの場から遠ざかります。


本國寺城跡
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