惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史④)


元亀元年六月、織田・徳川連合軍は、近江姉川にて、浅井・朝倉連合
軍と激突します。

相互の兵力の実数は不明ですが、共に一万を越す大規模な戦闘であっ
たことは確かなようです。

徳川勢の参戦をみても、地の利に劣る織田方が圧倒的な優位にあった
とは思えず、浅井・朝倉勢の猛攻により、織田勢は十三段の備えを十一
段まで崩されたといいます。

戦局は徳川勢の側面攻撃により織田勢が挽回し、崩壊した浅井・朝倉
勢に対し追撃戦を敢行し、多くの敵将を討ち取ったといいます。

実際のところ、織田勢は押しまくられ、徳川勢の活躍でかろうじて勝利し
たというのが偽らざるところで、「信長公記」でのこの戦いの記述は、華
々しい表現がなく、苦戦の様が感じ取れます。

光秀は、この戦いには参加しておらず、信長は戦いの後、都に入り光秀
の館に滞在しています。「三河物語」や「松平記」には姉川で信長は、光
秀を柴田勝家とともに一番備えにおいた、との記述がありますが疑わしい
ものです。

同年四月の越前朝倉氏に対する侵攻戦には、光秀は参加してるようで
すが確かな事は不明です。一色藤長の波多野秀冶宛の書状には、信
長は、秀吉、光秀を金ヶ崎に残して退いたとありますが、「信長公記」に
は、ほぼ同時期に丹羽長秀とともに若狭へ派遣されたとあり、戦闘への
参加は断定できません。

前後関係から考えると、この戦闘にも参加していない可能性が高いと思
われます。

光秀はこの時期は都にいて、戦闘に参加せず、なんらかの工作に従事し
ていたと思われ、実際の戦闘への参加は、同年八月の、三好、本願寺
勢との戦いからであり、摂津方面から帰京した光秀らを「言継卿記」は九
月二十一日付けでこう記しています。(光秀とその日常⑰)

晩景又夜ニ入自南方、明智十兵衛、村井民部少輔、柴田修理亮等上洛
御城之御番云々

光秀が勝家らとともに、南方の戦線から帰京し、都の守りについたとあり
ます。これは浅井・朝倉勢が坂本まで進軍してきており、都の防衛にあた
った思われ、その後信長とともに、坂本へ兵を進めます。
九月二十六日の記述には

今日坂本之説無殊事、仰木ヘ被行衆藤宰相ーーーーー明智十兵衛ーー
等帰陣云々

とあり、帰京したとあります。光秀の戦場での働きは、このあたりから史料
の中でみることができます。

姉川合戦図屏風(真柄十郎左衛門)
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