惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

濃州余談㊶

 

織田信長足利義昭の関係は、義昭の上洛一年後の元亀元年には

はやくもぎくしゃくし始めます。

それぞれの思惑が乖離しており、義昭は選択する相手を間違えたと
やっと気づいたというところでしょうか。

信長はこれに先立つ三年前の永禄九年には、前年の兄義輝殺害後
上洛を望む義昭に対して参陣を表明し、義昭を奉じ上洛する旨が、こ
の時期の信長の動向を記した書状のなかで残されています。

かなり早くから信長は上洛計画を持っていたようですが、美濃の齋藤
氏との戦いもあり信長は動けず、義昭は近江の六角氏のもとから、若
狭の武田氏を頼りますが、これも全く頼りにならない状況でした。

この後、義昭は朝倉氏を頼り、越前に向かいます。要するに義昭は誰
かまわず自分を援助してくれるよう依頼しています。

しかし朝倉氏当主義景は、優柔不断な性格で腰をあげようとしません。
窮した義昭は、齋藤氏との戦いに勝利した信長に再接近します。ころ
がりこんできた好機を信長は見逃しませんでした。

義昭は、永禄十一年七月十二日付けの上杉謙信宛の書状で、信長
を頼り、美濃へ移ると述べています。謙信を頼っていればまた違う展
開があったのではと思えるのですが、武田氏を後背にしての上洛は
謙信には危険すぎたのでしょう。

義昭は越前から近江へ入り、浅井長政の館に宿泊し、その後美濃へ
入り、岐阜西ノ荘の立政寺で信長と面会しています。

「細川家記」内には、この時期の光秀と細川藤孝の行動が記されてい
ますが、信用できないところが多く、実際は和田惟政一人に付き添わ
れ岐阜へ赴いたようです。しかし光秀がこの一連の義昭の行動に関
与している可能性は高いと思われます。

立政寺
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