惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史⑦)


「言継卿記」の永禄十一年二月八日(1568年)付けの記述に

左馬頭源朝臣義榮宣爲征夷大将軍、兼可聴禁色

とあり、この日足利義栄十四代征夷大将軍に就任しました。

義栄は平島公方足利義維の子であり、十三代将軍足利義輝
従兄弟にあたり、義輝を殺害した三好三人衆に推され、従五位
下左馬守に任官します。

永禄十年、不在となつていた将軍宣下を朝廷に申し出ますが、
資金不足により献金が出来ず断られます。翌年三人衆の援助
により将軍に就任しますが、健康上の理由もあり、摂津に留まり
都に入りませんでした。

実際には都近辺に残存する義輝の勢力の報復を恐れてのこと
だったのでしょう。

同年九月には、足利義昭が信長に奉じられ上洛し、三人衆の勢
力が都周辺から駆逐され、義栄も阿波に逃れていきます。

この後、まもなく義栄は病気により死去しますが、実際は、厄介
者として、三人衆に始末されたのかも知れず、義栄の死亡した日
はわかっていません。

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