「言継卿記」の永禄十一年二月八日(1568年)付けの記述に
下左馬守に任官します。
永禄十年、不在となつていた将軍宣下を朝廷に申し出ますが、
資金不足により献金が出来ず断られます。翌年三人衆の援助
により将軍に就任しますが、健康上の理由もあり、摂津に留まり
都に入りませんでした。
実際には都近辺に残存する義輝の勢力の報復を恐れてのこと
だったのでしょう。
同年九月には、足利義昭が信長に奉じられ上洛し、三人衆の勢
力が都周辺から駆逐され、義栄も阿波に逃れていきます。
この後、まもなく義栄は病気により死去しますが、実際は、厄介
者として、三人衆に始末されたのかも知れず、義栄の死亡した日
はわかっていません。