惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史⑧)


光秀の時代においても、戦闘の根幹には兵士の相互協力があり、
攻撃に対して組織的防衛を行うには、日頃からの意思連繋が欠く
べからざる要因であることは現在と変わりません。

足利義昭の上洛後の拠点である本國寺攻撃には、三好勢は六千
の兵士を動員したと「多聞院日記」に記され、先遣隊の薬師寺勢も
かなりの数であっただろうと推測されています。

この戦闘に参加した義昭方には、奉公衆とおもわれる者の名前は
少なく、奉公衆の多くは将軍足利義栄の元にいたのかもしれませ
ん。義昭方の反撃は凄まじく、配下の若狭衆は、薬師寺本陣へ斬
り込んだといいます。

この時光秀とともに戦った者の中に、渡辺氏の一族らしき人物がい
ます。この渡辺勝左衛門とは誰かは断定できないですが、「信長公
記」の記述では、光秀の次にあって、光秀との関係性が感じられま
す。

渡辺氏は高野を本貫地とする地侍で、この時期義昭傘下として光
秀と部隊を形成していたと思われます。

浅井・朝倉勢の坂本進出に対して、出陣した者の中に岩倉の山本
氏があり、光秀の次に「言継卿記」内に記され、渡辺氏同様光秀と
のあいだで軍事的関係があった事を感じさせます。(光秀戦闘史④)

この他に、山本氏と姻戚関係のある、佐竹氏、磯谷氏らが、光秀と
共に義昭上洛後部隊を形成し、洛北武士団による戦闘集団を形作
って、共に軍事行動をしていたのではないでしょうか。

これらの地侍は、吉田兼見とも縁戚関係を形成しており、信長の義
昭に対する優位性が確立されるなかで、光秀の家臣団に組み込ま
れていったと思われます。

光秀の都での館が、洛北の地にあったとすでに述べていますが、地
縁により動員される農民兵士の一体感は、軍事行動の円滑化を促し
たことでしょう。(四人の天下人㊾)

信長と義昭の対立が決定的になると、山本、渡辺、磯谷各氏は、義
昭の側につき光秀と袂を分かちます。

しかし上洛後しばらくのあいだは、地縁、血縁でむすばれたこの集団
が、光秀の軍事力の中核にあったのではないでしょうか。

光秀重臣三宅秀満は、高野に三宅町や三宅神社が現在もあることな
どから、ここを本貫地とした岩倉山本氏の庶流であり、洛北一帯の下
級武士や農民兵士を、山本氏らを討伐したあと纏め上げた功績を光
秀に評価され抜擢された、と考えると秀満の活躍が理解しやすくなり
ます。

いづれにせよ、その後の比叡山延暦寺に対する仕置きは、光秀を中心
に行われたことは間違いはなく、その軍事行動の中核にこれら洛北武
士団があったと思われます。


イメージ 1