惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史⑨)


元亀元年八月、三好三人衆は再度義昭・信長に対して挙兵し、信長方
である松永久秀や三好義継らと戦闘状態に突入しました。

浅井・朝倉勢を姉川で打ち破り、岐阜へ帰還していた信長は、急遽都へ
入り、兵を整え八月二十六日に摂津天王寺に着陣しました。

この時は義昭も光秀ら奉公衆とともに参陣しています。

戦いは数に勝る織田勢が優勢でしたが、中立を表明していた石山本願
寺が突如織田勢に襲いかかると戦況は一変しました。

信長公記」によると、この時顕如自ら鎧を着けて、信長本陣近くまで
押し寄せたあります。
顕如浅井長政延暦寺に書状を送り、合力を要請します。

姉川での敗戦後、陣容を立て直した浅井・朝倉勢は、延暦寺の僧兵や
一向門徒らとともに都へ向かい、宇佐山城主森可成の軍勢と、坂本近
くで激戦となり、可成と織田信治は討死します。

浅井・朝倉勢は続いて宇佐山城を攻撃しますが、森家家老各務元正ら
の奮闘で城は持ちこたえます。

この報せを聞いた信長は摂津から軍主力を引きあげ都へ入ります。信
長の転進を聞き、浅井・朝倉勢は叡山僧兵とともに比叡山へ入り睨み
あいが開始されました。

この後十二月中旬に浅井・朝倉勢が撤兵するまでの、長期にわたる持
久戦は、信長にとって大きな危機でありましたが、浅井・朝倉勢にとっ
ても何も得るもののない不毛な戦いであり、両氏の滅亡を早める結果
となりました。これを「志賀の陣」といいます。

「言継継記」はこの時の様子をこう記しています。

越州衆、北郡高島衆等、其外一揆共三萬計坂本打出云々、仍志賀
之城之大将森三左衛門取出、千計討取、但小勢六百計之間、三左
衛門討死

とあり、森乱丸の父である可成の戦死を伝えています。
更に十一月になると、両陣営から和平機運が高まり、二十七日の堅
田での戦闘があった翌日に

武家今日志賀ヘ御成云々、和睦御調之儀

とあり、義昭を介して和平交渉が開始されたことがわかります。
この交渉は十二月に入りまとまったようで、十日の記述に

志賀之儀依無事ニ相調、山門ヘ綸旨被出之云々

とあり和平が無事整ったと言継もホッとしています。
そして十五日の記述で

今朝朝倉左衛門督越州ヘ被引

とあり、相互に人質を交換して朝倉勢は比叡山を後にしました。

その後、浅井・朝倉勢が居住した小屋はすべて焼き払われたとあり、
長期にわたる睨み合いには幕が降ろされましたが、延暦寺に煮え湯
を飲まされた信長は、怒りを抑える事ができませんでした。

宇佐山城跡
イメージ 2
イメージ 1