本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史⑩)
も兄義輝殺害への報復を胸に刻んでの出陣でした。
呼びかけに応じた、延暦寺と浅井・朝倉勢は都にせまり、信長の後方を
脅かします。
としてのこの勢力の実力を、信長は甘く見ていたのかもしれません。
軍主力を都へ転進させた信長は、決戦を避け比叡山へ籠った浅井・朝倉
勢と向き合う事となります。
「言継卿記」の九月十ニ日付けの記述によれば
とあり、浅井・朝倉勢は八千の兵力で来襲したようです。
しかし二十日には
ました。
信長の転進を受けて、比叡山に籠った兵力はかなりの数であったと推測
されます。彼らは雨風を防ぐ程度であろう小屋を作り、そこを住居として
いたようです。
大部隊での決戦は行われなかったのですが
との記述があり、おそらくは一向門徒が麓だけではなく、広範囲に荒らし
まわっています。
それに対抗してか、十月三日の記述には
亥刻山上西塔西谷六坊焼之、高野蓮養坊、田中之渡邊両人忍入焼云々
とあり、叡山西谷六坊が放火されます。
忍び入るとありますから、織田方の手のものであると思われますが、この
高野蓮養坊は、後日朝倉方の密書を持っていたとして逮捕されています。
いづれにせよ、ひどい混乱ぶりで、信長も困り切っており、河内の遊佐信
教宛に、家康の援軍が近江に着陣し秀吉らと戦闘に参加する、と嘘の書
状を送り、兵力不足を隠蔽しようとしています。
最終的には正親町天皇の綸旨をもって和議が整うのですが、その仲介
役は義昭であり、理解しづらい構図となっています。
光秀は恐らくこの時は、洛北にいて、山本氏、佐竹氏、渡邊氏とともに、
浅井・朝倉勢の下山に対して防衛線を張っていたと思われます。
かえしています。義昭上洛後の拠点本國寺は、当時日蓮宗総本山であ
り、信長とも友好的であり、そのあたりが延暦寺の反発する要因の一つ
であったかもしれません。