惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

濃州余談㊷



光秀は、摂津より帰還後、穴太要害で佐々成政らとともに、浅井・朝倉

勢と対峙しますが、浅井・朝倉勢が比叡山に籠ったので、ニ日後の九
月二十六日都へ戻り、洛北で岩倉山本氏らとともに、防衛線を構築し
たと考えられます。

北白川あたりまで、一揆勢は押しかけましたが、大規模な戦闘はなく、
膠着状態が続きます。

十一月になると、光秀は前線を離れ吉田兼見を訪ね、石風呂を所望し
ています。又兼見の父兼右を、前線にある勝軍山城に招き見学させて
います。あまり戦闘のない退屈な日々が続いていたのかもしれません。

この頃になると和平の機運が高まっており、足利義昭を介して朝廷に
対して工作が始まり、大枠の合意をみます。

「言継卿記」内の、十二月一日付けの記述に

武衛へ参、御留守ニ聖護院御門主ーーーーー細川右馬頭、摂津守、
木下籐吉郎等祇侯、御酒有之、次徳雲與籐吉郎碁有之

とあり、義昭邸を訪問したが留守で、秀吉らがいて酒を飲み、その
徳雲と秀吉は碁にうち興じたとあります。

この徳雲とは施薬院全宗のことで、この時期は、比叡山の僧侶であっ
たはずなのですが、敵方にあって、更に秀吉と碁を打っている様子を
みると、この人物は実は織田方の工作員であったのではと空想が膨
らみます。

あるいは、和平工作の為に下山していたとも思われますが、酒を飲み
秀吉と碁をうつ様子からは、その類のものではないことがわかります。
いずれにしても、言継が顔を見知った謎の多い人物であることは確か
です。(四人の天下人㊾)



勝軍山城堀跡
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