惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史⑪)



信長公記」によると

信長公志賀ノ城中佐山ニ御居陣ナリ、叡山西ノ麓、古城勝軍拵ヘ
津田三郎五郎、三好為三、香西越後守、公方衆相加ヘ二千バカリ
在城ナリ

とあり、信長ら主力は、浅井・朝倉勢の後詰に備えて、叡山東麓に展開
し、光秀ら奉公衆は織田軍の一部とともに、二千ほどの兵力で古城勝軍
山城を整備しなおして入り、守りを固めたとあります。続いて

屋瀬小原口ニハ山本対馬守、蓮養、足懸リヲ構ヘ陣取リ、彼ノ両人
案内者ノ事ニ侯へボ、夜々ニ山上へ忍ビ入リ谷々寺々焼キ崩シ候
ノ間、難堪致スノ由候ナリ

とあり、八瀬小原に山本対馬守と蓮養が足場を作って陣を構え、その足
場から、夜な夜な叡山山頂に忍び込み、寺を焼いたとあります。

「言継卿記」の記述とは、時期と実行者名が異なっていますが、夜間、叡
山の地理に明るい洛北の土豪達が、暗闇にまぎれて放火していた事が
みてとれます。(光秀戦闘史⑩)

この蓮養とは、佐竹宗実の父のことで、宗実は後に明智秀慶と名を改め
ます。

「言継卿記」では、高野渡邊氏が高野蓮養坊とともに放火したとあるので
昼間に一揆の襲来があると、夜間、洛北の主要な土豪達が報復に叡山
に忍び込み寺を焼いていたのでしょう。

後に、信長が比叡山延暦寺を焼討ちした時、彼らの経験が役に立った事
はたしかでしょう。

岩倉の山本氏を中心として、佐竹、渡邊、磯谷の各氏は縁戚関係を形成
しており、義昭傘下の主要な軍事勢力であり、地縁で結びつく奉公衆光
秀と、緊密な軍事的連携があったことには間違いないでしょう。

彼らは、義昭の信長からの離反により、光秀と対立しますが、義昭が追放
されると、その配下の下級武士や農民兵士は、光秀の軍事力として家臣
団のなかに吸収されていきます。

三宅弥平次は、岩倉山本氏の庶流で高野三宅郷を本貫地とする三宅氏
の一族であり、佐竹宗実とともに、初期の光秀の軍事力形成に貢献した
人物であると考えると、共に、明智秀満明智秀慶と名を変え光秀の主要
な家臣となる理由が理解できます。

ここ洛北の地が、光秀の初期の頃の人脈や軍事力の源泉であり、蓮養坊
という名にみられるように、佐竹一族は延暦寺と密接な関係をもち、それ
が光秀の強みとなり、延暦寺焼討ちの際にはそれらが充分に生かされま
した。


渡邊氏一乗寺山城堀跡(戦時用)
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