本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史⑫)
であり、睨み合いが続いていました。
元亀元年十一月十三日、光秀は吉田兼見邸を訪問し勝軍山城在陣を
告げ、岩風呂を所望しています。
二十一日には、兼見父兼右が勝軍山城に信長を訪ね、その夜は光秀
陣所に宿泊しています。この日信長は六角氏との和睦を成立させてお
り、水面下で朝倉氏との和平の道を探っていました。
光秀は兼右とともに、洛中へ戻り、又しても兼見に岩風呂を所望して
います。
二十六日に、勝軍山城の軍勢は移動を開始し、坂井政尚ら織田勢は
近江堅田へ向かい、光秀ら奉公衆は八瀬大原で、岩倉山本氏、佐竹
氏と合流します。これは、和平交渉が進展し、叡山西麓の囲みを緩く
して、朝倉勢の越前への帰還を促す目的があったと思われます。
す。これに驚き翌日足利義昭が、近江志賀へ「和睦御調之儀」の為
向かいます。
廷と幕府の調停により成立したと述べ、山門領は以前と変わりない旨
伝えます。これが正親町天皇の綸旨の内容ですが、これは将軍権威
による、家臣同士の私戦中止命令であり、天皇がそれを担保するもの
でした。
感の大きい延暦寺を特に慰撫するものでした。
朝倉三勢力の分裂を促し、その後信長の各個撃破の対象となり三者
ともに滅亡にいたります。
んとうにこの人は先を見る目がない人のようでした。
昭から、今回延暦寺が朝倉氏に加担したことを、不問に付すよう言わ
れた事に承知し、今後は義昭に対して生意気な態度をとらない旨伝え
るよう依頼しています。口先だけの言葉ですが、信長が窮していた様
が伝わってきます。
ます。(尋憲記)
命と将軍の上意により成立し、延暦寺の処遇については、信長も以前
同様であるとなだめています。
延暦寺の浅井・朝倉勢が去った後の不安感は大きく、しかしこのまま
残るわけにもいかず、結局義景は延暦寺を見捨てました。
十四日、信長は近江永原城へはいり、陣払いをして美濃へ帰還します。
朝倉方も人質を出し、山頂の小屋をすべて焼き払い、個別にそれぞれ
の領国に帰還していきました。
朝倉と和平することで、この危機を乗り切った信長は、すべての約束を
反故にして、叡山領の奪取をもくろみ次なる行動にでます。
この時代の約束事は、当座の面子を保つだけのもので、綸旨などもそ
の場かぎりのものでした。
後醍醐天皇綸旨