惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史⑬)


一向門徒と浅井氏にとっては、織田氏との戦闘は終結していなかった
のでしょう。

元亀二年二月、近江佐和山城主磯野員昌が浅井氏から離反し、織田
氏に寝返ると、一挙に緊張が高まり、浅井氏と一向門徒は近江そして
伊勢長島で戦闘態勢に入ります。

光秀は、森可成が戦死したあとの、宇佐山城の守備に入ります。ここに
何故、信長が光秀をいれたのかは、大変興味深いものがあります。

五月に入ると、戦闘は本格化し、浅井長政が一向門徒とともに出陣し、
堀秀村を攻めます。これに対して秀吉らが防戦に努め、これを箕浦合戦
といいます。

同時期に伊勢長島での、一揆衆との戦闘も激烈になり、ともに織田勢は
苦戦を強いられます。

信長の頭の中には、「志賀の陣」の時の苦い記憶が蘇った事と思われ
ます。摂津、大和方面での松永久秀の動向も不穏であり、信長の苛立
ちはかなりのものだったでしょう。

しかし、朝倉氏、延暦寺には目立った動きはなく、織田氏との戦闘は浅
井氏、一向門徒、三好勢との間の事であり、特に延暦寺は、天皇の綸
旨もあり、足利義昭も山門領を従来通りと認め、信長もそれに追従し、
朝倉義景でもがそれに念を押しています。

延暦寺はすっかり安心していたのでしょう。しかし山門領の末端では、軍
需物資が浅井勢や一向門徒に従来通り流れ、信長の不快感は高まりま
す。延暦寺がもうすこし慎重に行動していれば、別の展開もあったのでし
ょう。

信長公記」によれば、織田、朝倉の和平の折

今度、信長公ヘ対シテ御忠節仕ルニ付キテハ、御分国申ニコレアル山門
領、元ノ如ク還附セラルベキ御金打ナサレ御朱印ヲナシ遣ハサレ併セテ出
家ノ道理ニテ、一途ノ最員ナリカタキニ於イテハ見除仕リ侯へト、事ヲ分チ
テ仰セ聞カサル、若シ此ノ両条違背ニ付キテハ根本中堂、山王廿一社初
メトシテ悉ク焼キ払ルベキ趣、御諚侯ヘキ

と信長と延暦寺の間に約束があり、その約束を破ったら延暦寺を焼討ちし
ますよ、と取り決めてあったとあります。

しかし、信長と延暦寺の間には、和平に関しての直接的な取り決めはなく、
延暦寺はその安全を、無条件に天皇、将軍、朝倉義景、そして信長からも
保証されていたはずなのに、信長は八月二十四日、江州横山に進軍し、九
月十二日、比叡山延暦寺焼討ちの暴挙にでます。


延暦寺西塔転法輪堂
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