惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史⑭)


天正二年九月段階で、特に敵対的な態度を取っていなかった延暦寺を焼
き討ちした信長の真意は、潜在的敵対勢力の除去と叡山領の奪取にあり
ました。

その実行部隊の中軸は光秀配下の軍事力でありました。

洛北の武士団は、志賀の陣を経て光秀との連繋を深め、その一部は光
秀の家臣団に組み込まれていきます。佐竹氏、山本氏、渡邊氏、磯谷氏
、三宅氏などがそれにあたり、特に佐竹氏は、叡山焼討ち後に叡山政所
として延暦寺の管理にあたります。

又、宇佐山城の守備を任せられた光秀は、恐らくは、戦死した森可成及び
その嫡男可隆に代わり、残存した森家家臣団を指揮下に置き、琵琶湖周
辺の叡山系の土豪たちに対し調略活動を開始したと思われます。

肥田、各務らの森家家臣は、可児長山の地頭としての明智家と関係のあ
る者たちであり、森長可の登場までは、光秀と行動を共にしていたことで
しょう。叡山の東西麓を影響下に置いた光秀が、叡山攻略の中心的任務
を負ったことには疑いの余地がありません。

叡山焼討ちは、足利義昭の意に沿うものではなく、天皇、朝廷は綸旨まで
だして叡山の安全を担保しています。

これは、信長の独断での軍事行動であり、光秀がその中心的任務を負っ
たことで、光秀が、織田家家臣としての本来のスタンスに戻ったことがわ
かります。

八月信長は、近江横山に陣を進めますが、その主力は伊勢長島にあり、
馬廻りを中心とした、数千での布陣であったようです。

光秀も調略活動を活発化させ、叡山系の国人領主和田秀純らに書状を
送り懐柔しています。信長は延暦寺とは犬猿の仲である、園城寺に本陣
を構えます。

丸裸にされた叡山延暦寺は、九月十二日事前通告もなく攻撃をうけ、組
織的抵抗もなく、全山焼討ちの惨禍に見舞われました。

「言継卿記」によれば、その焼討ちは十三日、十四日、十五日にわたり、
残存した寺院もすべて焼き払う、徹底したものでありました。


和田秀純宛光秀書状
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