惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史⑮)


叡山における、織田勢による僧侶を含む大量殺戮には、疑問視する見方が
あります。しかし長い歴史をもち絶大な影響力を保持し続けた延暦寺が、こ
の後秀吉らによる失地回復の試みが行われるまで、信玄のもとに逃げた僧
を除けば、なんら活動しえなかった事を考えれば、その中枢はこの時完全に
破壊されたと考えざるを得ません。

信長公記」にはその殺戮のありさまが克明に記され「言継卿記」によれば

織田彈正忠従暁天上坂下被破放火、次日吉社不残、山上東塔、西塔、無
童子不残放火、山衆悉討死云々、大宮邊八王子両所持之、數度軍有之、
悉討取、講堂以下諸堂放火、僧俗男女三四千伐捨、堅田等放火、佛法破
滅、不可説々々々、王法可有如何事哉、大講堂、中堂、谷々伽藍不残一
宇放火云云

とあり、徹底した放火と殺戮が行われたことがわかります。

佛法破滅と言って仏教の破滅を嘆き、王法可有如何何事と言って天皇の法
令すなわち綸旨はどうなったのかと怒っています。

いづれにせよこの出来事はとんでもないことだったようです。

信長は僧侶からの助命嘆願には一切応じず、一人一人丁寧に首を切ってい
ったと「信長公記」に記されています。

其ノ隠レナキ高僧、貴僧、有智ノ僧ト申シ、其ノ他、美女、小童其ノ員ヲモ
知ラズ召シ捕ヘ召シ列ラヌル。御前へ参リ悪僧ノ儀ハ是非ニ及バズ、是ハ
御扶ヶナサレ侯ヘト、声々ニ申シ上ゲ侯ト雖モ中々御許容ナク、一々ニ頸
ヲ打チ落サレ目モ当テラレヌ有様ナリ
数千ノ屍算ヲ乱シ哀レナル仕合セナリ、年来ノ御胸朦ヲ散ゼラレ訖ンヌ
サテ志賀郡明智十兵衛ニ下サレ、坂本ニ在地侯ヒシナリ

これが真実だったと思われます。織田方内部からも助命嘆願の声があった
にも関わらず、信長は、高僧、貴僧、学識経験豊富な僧まですべて頸をきり
、目も当てられない惨状だった、と太田牛一は同僚から聞いた話を、正確に
記しています。恐らくは信長の小姓衆、馬廻り衆が行ったのでしょう。

信長の残忍性をよく象徴した出来事でした。光秀は信長からこの功績により
志賀郡を与えられ、坂本に城を築き、失地となった延暦寺領の統治を開始し
ます。

元亀二年十月の「蘆山寺文書」のなかに、正親町天皇による同寺院に関す
女房奉書があります。その内容は、光秀が同寺院を延暦寺の末寺とみなし
その所領を押領しているが、この寺院は延暦寺とは無関係であるから止め
させるよう光秀に伝えよ、と甘露寺経元に命じています。

又「言継卿記」内にも、同年十二月に正親町天皇から信長宛に、光秀が青
蓮院、妙法院曼殊院の門跡領を、延暦寺領として押領しているのでこれを
止めさせるべく、義昭から信長へ調整させようとしましたが、効果がないの
で直接綸旨をだしたとあります。

当然これは信長の意向にそっての光秀の行動であり、志賀郡内における、
延暦寺領の接収であり、光秀はそのどさくさにまぎれて、他の寺社領も自己
の所領に組み込もうとしたのでしょう。

光秀が手にした延暦寺領は一国の半分ほどであった、とフロイスは「日本史
」のなかに記しています。佐久間信盛らも所領をえていますから、すこし大
げさですが、光秀が手にした始めての大きな所領であったことには間違いあ
りません。

そしてそこから生まれる富は、織田軍団の畿内での軍事行動の資金的裏づ
けとなり、光秀を織田家臣団の上層部へとおしあげていきました。


青蓮院
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