惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史⑲)


「言継卿記」の元亀二年十月十六日付け記述に

竹内殿ヘ参、客来之一味、蔓草、墨繪、懸御目、可然
繪之由承了、今度叡山之取物也、買得之

とあり、比叡山延暦寺焼討ちの折、略奪された絵画が、都の公家衆
のあいだで、お買得品として出回っていたことがわかります。

殺戮のみならず、徹底した略奪が行われ、延暦寺山塔が四日に渡り
燃え続けたのは、略奪完了後に放火されたからと想像できます。

同年十二月十一日付け記述では、禁裏から信長へ綸旨が出された
とあります。

今度就山門之儀、諸門跡領、明智令押領之由被聞食訖---
諸門跡領悉以無別儀之様被申付者ーーーー仍執達如件

                               左中辨晴豊

光秀が山門領として押領した門跡領を、天下安寧の為原状復帰させ
よ、と天皇の上意をもって命じる執達状です。(光秀戦闘史⑮)

逆に言えば、光秀の叡山領占拠を認可していることにもなり、朝廷の
弱腰が見て取れます。又光秀の事を明智と言っており、土岐氏庶流
奉公衆明智氏に属する者として綸旨内に記され、大変興味深いもの
があります。

光秀はこの後も都での政務に携わり、同時に欠所となった叡山領の
管理の中心である坂本の地に、新城の普請を始めます。


懐良親王令旨(仍執達如件とあります)
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