惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史⑱)



足利義昭は、天文十一年(1542年)興福寺に入室し、永禄九年(1566年)
に還俗するまで、二十年を越す歳月を僧侶としてすごしました。

一乗院門跡として、将来は興福寺別当を約束され、還俗時、権少僧都
地位にあり名を覚慶といいました。

義昭には延暦寺に、知己が多くあった事とおもわれます。朝倉氏と織田氏
の和平交渉に尽力し、織田氏の苦境を救い、延暦寺の処遇についても将
軍として、その安全を保証しました。

意気揚々とした義昭の姿が想像できます。しかし信長は、約束を反故にし
て、叡山殲滅の軍事行動に出ます。作戦決定は焼き討ち前日であったと
いいますが、光秀の叡山系の土豪に対する、調略活動をみると周到に用
意され、叡山側が完全に切り崩されたうえ、実行されたことがわかります。

義昭が、叡山殲滅作戦を、事前に把握していた可能性は、極めて低いと
思われます。この作戦を知れば当然義昭は、その経緯からみて反対した
ことと思われます。

義昭は信長のこの軍事作戦により、完全に面子を失いました。又光秀が
この作戦の主要な実行部隊を、指揮したことに驚愕したことでしょう。

このことからも、義昭の意向を無視して、信長と光秀が密接に連繋してい
た事がわかり、信長との関係性が、義昭よりも優先されるものであったこ
とが見て取れます。

叡山焼討ち後の元亀二年の十二月と思われる、光秀の義昭近習曾我助
乗宛の書状が残っています。

光秀はその中で、将軍近習としての務めを退く事を願い出ています。落
飾して坊主になりたいとも言っており、奉公衆光秀から信長直臣への道
を踏み出します。

叡山焼討ちに対する、義昭の反応は如何なる物であったのか、史料上
では不明ですが、これをもって信長と義昭の水面下での戦闘が、開始
されたと考えて間違いないでしょう。


この時点では、細川藤孝らは義昭傘下にあり、信長と光秀による義昭配
下の切り崩しが始まります。



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