本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史⑳)
氏の庶流であるといわれます。
六角氏の名の由来は、都の六角堂近くに、館があったからといわれ、
が諸説あります。
この和田秀純は、六角義秀に仕え、志賀郡の土豪を束ね、交通の要所
である雄琴城を守備していました。
永禄十年に制定された「六角氏式目」に見られるように、この地域は自
主性の強い国人領主が群拠していました。
分断を図りました。光秀は秀純に対して、恩賞は望み通り与える事を約
し、雄琴城の戦力の充実強化、人質の引渡しを命じ、湖東を南下して来
る織田軍の進路を詳細に伝え、不要な衝突を避けるよう調整をとらせて
います。(光秀戦闘史⑭)「和田秀純宛書状」
織田勢に対し、非協力的な仰木の八木氏に対しては
仰木ノ事ハ、是非トモナデギリニ仕ルベク侯
と、必ず残らず切り捨てる、と脅しています。秀純がその旨八木氏に伝え
たかは不明ですが、武人光秀を垣間見ることができます。
ほぼ同時期に光秀の調略によるかは不明ですが、堅田衆の猪狩野甚介
、居初又ニ郎、馬場孫ニ郎らも光秀の配下となり、織田水軍を構築してい
ます。
琵琶湖の水運、漁業を監視下におくために、光秀は坂本城を水城とし、彼
らを配下において、その軍事力で琵琶湖での権益を確保します。
雄琴城跡