惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ②)



天正八年正月十七日、播磨三木城は落ち、別所長治は自害しました。

長い戦いに幕が降ろされ、播磨はほぼ平定されます。

織田方の海上封鎖は本願寺の補給路を奪い、播磨からの陸路での
補給までも断たれた本願寺は孤立の色を深めました。

前年十二月の荒木村重一族、郎党に対する凄惨な仕置きが、本願
寺に与えた心理的効果は大きく、門跡顕如光佐は講和への道を探
ります。

本願寺の持つ、各種世俗的利権の継承をもくろむ信長は、決戦を避
けており、この機会を見逃さず、近衛政久を動かし、正親町天皇の勅
命により講和の締結をめざします。

信長側は、起請文、人質を出し、加賀国の二郡を本願寺側に返却する
ことを約すなど、低姿勢で臨みますが、顕如の長男教如光寿は雑賀の
一部勢力と結び不穏な動きをみせます。

この時、信長が近衛政久に宛てた朱印状があります。

今度大阪之使御苦労共候、彼方疑心気遣尤候歟、併者叡慮、前
久御取持候上者、聊表裏有間敷候条、能々被申聞、無気遣候様
馳走専一候、恐々謹言

      三月十七日     近衛殿       信長(朱印)

本願寺側が疑心暗鬼になるのは当然だろう、と信長は述べ、自分は
表裏がないから、本願寺に心配しないよう申し聞かせてくれ、と言っ
ています。

親父は講和に応じ、倅はそれに不満というのは、現在でもよくあるこ
とですが、光寿には、信長の手法に対する根強い不信感があり、篭
城の動きはおさまらず、毛利氏や足利義昭とも連絡をとります。

顕如はこれに驚き、光寿と父子の縁を切り、弟光昭を跡継ぎとしま
す。
これが後の東西本願寺の成立の原点ですが、この光寿の態度に信
長は激怒し、佐久間信盛、松井友閑宛に朱印状を出します。

新坊主退出遅々付而、門跡存分井雑賀面々書付、無比類候、---

と続くこの命令書は長く、信長は愚痴を言い、妥協案を示したりしてい
ますが最後に

大阪一日モ続カタク候ニ出入事、信長時節歟、若坊主果候歟、---

とあり、大阪篭城は許さないといい、信長が死ぬか、若坊主が果てる
かと息巻いています。

この信長の剣幕に驚いたのか、光寿は大阪退去に応じます。

光寿はかって近衛前久の猶子であったことがあり、前久の粘り強い交
渉が実ったのでしょう。

信長は光寿に対しても、光佐と同じく、人質、起請文を出し、加賀二郡
の返却を約しています。

八月二日光寿は大阪を退去します。

これで本願寺のもつ権益とその領土は信長の手に落ち、長年にわたる
信長の宗教勢力との戦いは信長の勝利で終わりました。

信長はすでに越前で本願寺勢力を壊滅させており、更に摂津を押さえる
ことで、日本海海上交通の中継点と瀬戸内海、太平洋の中継点を共
に占有し、海外貿易等の利権とそこからうまれる富を独占します。

海上交通の中継点を信長に支配された、東北、九州等の戦国大名は、
消費地である畿内への自国産物の物流ルートを握られ、信長に隷属す
る立場へと転化していきました。

これが宗教戦争の裏にある信長の経済戦争の本質であり、本願寺を屈
服させることで、信長の全国平定戦の過半は完成しました。


教如光寿
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