惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

濃州余談㊿

 

天正七年正月十七日、吉田兼見は光秀を坂本に訪ねています。

(光秀戦闘史㊽)

その留守宅に山科言継の子言経が、禁中の御使いで訪れますが

吉田預ヘ、禁中爲御使罷向了、坂本ヘ罷向云々

とあるように、あいにく坂本ヘ出かけ留守であったと「言経卿記」
に記されています。

「兼見卿記」の同日の記述には、光秀との会食の記述の後に

入夜皈宅、山科黄門爲御使夾、予他出之間御皈京、廿日以後
夾之由黄門云、左近允取次之

とあり、夜、自宅に帰ると、山科黄門(言経)が御使いで来てい
たが、私が外出中であったので、禁中へ戻ったと記され、二十
日以降又来ると言経は左近允に言伝しています。

朝廷の御使いと聞いて、翌日、兼見は山科邸を訪問します。

雪降、三寸、向山科黄門、唐墨一、亞相五位鷺、亞相他行也
黄門面會、昨日仰之旨、黄門云、服忌令之義也、問答注別帋

雪が十センチも積る中、兼見は言経には中国製の墨を、父言継
には青鷺を土産に訪問します。

父言継はあいにく留守でしたが、言経に昨日の用件を聞くと、禁
中での祭事における服忌のことで、喪中の行動に関する質問だっ
たようで、その内容は別紙記載されていました。

「言経卿記」内の同日の記述には

吉田兼和夾。老父御留守也、老父青鷺一遣了、予墨唐、才送之
次一蓋、次神事ゝ共和尋了少々記之

とあり、言経の記述内容と兼見の同日の日記の内容が、完全に
一致します。

両人が示し合わせて日記を書いているはずはなく、彼らの記述
が極めて正確で、事実に即していることがわかります。

言経はこの質問内容と兼見の返答を記しています。

重輕服之人、宮寺(八幡、祇園等)、其外宮方参詣之事、不苦
之由申了

重服とは、父母の喪のことであり、輕服は遠い親戚の喪を指し、
これら喪中の人が寺社参詣は問題なしと兼見は答えています。

月水之事、七日内堅固神事相隔了、其身十一日過参詣了

といったものもあり、女中衆が生理になったら、一週間以内は
絶対に神事に参加させてはいけないと述べ、十一日を過ぎた
ら寺社への参詣は問題なしと記されています。その他三つの
質問と答えが記されていますが、兼見への質問は多数あった
ようで、言経は、此外不記了 とあるように記していません。

この二人のやりとりから、朝廷内で、吉田神道の影響力が増大
していることがわかります。

これら些細な神事にまつわる事は、長い伝統を持つ朝廷内では、
すでに取り決められているはずで、それを改めて兼見に尋ねる
のは、信長や光秀の力を背景とした、吉田神道の朝廷祭事へ
の浸透ぶりが見て取れます。

信長の吉田神道に対する考え方は、秀吉や家康とは違い、明ら
かではありませんが、光秀はこの唯一神道の教義に共感するも
のがあっただろう、とその馬印から感じることができます。
(四人の天下人㉙)(明智資料㉗)



祇園御霊会
イメージ 1