惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ①)



天正八年正月十七日、吉田兼見は祭礼の為、光秀の居城、坂
本城を訪れます。

惟任日向守爲礼下向坂本、路次風寒以外也、午刻着津、面
會、百疋持参、妻木五十疋・御祓、下向安土、預置奏者

とあるように、寒風の中、正午湖畔にある坂本城に到着します。

恐らくは安土で祈祷を必要とする事柄があり、信長の女房衆妻
木が坂本城まで出向き、城内で祈祷を終え、御祓い済みの札
等を持って、妻木は安土へ戻り、信長近臣に渡したようです。

慌しい受け渡しですが、翌日に控えた御所での左義長の為の
段取りだったのかもしれません。

左義長とは、小正月の火祭りの儀式で、禁裏では、正月十五日
と十八日に吉書(書初め)を焼きました。

この頃には、爆竹を使った派手なものとなっており、兼見は翌十
八日早朝、略装で参内していますから、それほど重要な祭礼で
はなかったようです。

光秀は同年三月には、坂本城を修築しています。

三月廿八日の兼見の記述には

惟日此間普請也、爲見廻下向坂本、召具侍従、果子一折五種
持参、面會相伴夕食、入魂機嫌也、普請大惣驚目了

とあり、工事中の坂本城を、下人とともに果物五種類を持参して
訪れています。

光秀と兼見は夕食を共にし、その時光秀はとてもこころやすく、
上機嫌であったと述べています。

雑談して時をすごす、楽しげな二人の様子が、目に浮かびます。

城の工事は大規模なもので大変驚いた、とあり従来の坂本城
もその壮麗さに宣教師が驚嘆していますから、現在の遺構から
は想像しにくいのですが、修築後にはかなり大規模な水城が出
現したのでしょう。


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