惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ③)



天正八年、丹波・丹後平定を終えた光秀は、坂本城を大規模に改修
します。ここ近江志賀郡一帯が、明智一族の本拠地であるという認
識を強く持っていたのでしょう。(光秀戦闘史Ⅱ①)

丹波では、平定後も一部土豪の反抗がみられ、完全制圧に至るのは
八月頃で、光秀は信長から丹波の経営をまかされます。

この時点で、丹波国内の各城砦には、明智秀満斉藤利三らが入り、
城代として、所領統治を開始します。

天正九年に入っても、光秀が明智一族の拠点を坂本から、丹波国
移転した事実はありません。織田氏分国での領土支配体制を一職支
配といいますが、その実態はよく分かっておらず、恐らくは信長自身
、拡大する織田氏分国の経営理念や経営方法に対して確たるものを
持ちえていなかったのでしょう。

この時期の信長から細川藤孝宛ての黒印状には

至其国早々示着候由、尤以可然候、於様子、惟任具申越候、弥相
談、政道彼是無由断可申付事専一候、此方見舞遅々不苦候、猶珍
儀候者、可注進候也

   八月十三日    長岡藤孝大輔殿       信長(黒印)

とあり、丹後国八幡山城に拠点をもうけた藤孝に、光秀から報告が
あった、と述べ、光秀と相談して、丹後における政道を油断せず、す
すめるよう指示しています。

光秀が丹後支配に関与していたことがわかりますが、これは旧守護
家である一色氏の問題が色濃くありました。(濃州余談㊽)

同年八月廿一日付けの藤孝宛信長黒印状には

----居城之事、宮津与申地可相拵之着、得心候、----
就其普請之儀、急度由候、則惟任朱印遣之候間、令相談丈夫可
申付儀肝要候ーーーーー                信長(黒印)

とあるように、信長は藤孝の宮津に新たに城を築きたいとの希望に
得心したと言っています。

光秀の方にも、朱印状をだしたからよく相談して築城するようにと言
っていることは重要で、朱印状はより重要性のある人物に出すことが
多く、黒印状を受け取る藤孝よりも光秀が、信長にとり上位の存在で
あることがわかります。

この頃藤孝は信長に対して、頻繁に書状を出していたようで、翌日
付の藤孝宛の信長の返信は

一昨日、午相剋之注進、今日申剋到来候-------ー
悉討果候由候、尤以可然候、猶々、万方無油断調儀専一候也

 八月廿二日  長岡兵部大輔殿
           惟任日向守殿          信長

とあり、丹後国土豪に不穏な動きがあり、これを成敗したと藤孝は
信長に伝えたのですが、その返書の宛先は、藤孝、光秀連名にな
っており、要するに信長としては、細かい事は以前書状で言ったよ
うに光秀と相談して処理すればいい、と言いたかったのでしょう。

しかし、藤孝には丹後国全体の支配権を奪取したい、との願望が強
くあったと思われ、九月二日には、藤孝は安土に赴き信長と対面し
ています。

丹後国内での一色氏と、その背後に見え隠れする光秀の影響力は
細川藤孝、忠興父子には決して愉快なものではなかったでしょう。

天正九年三月五日、信長は藤孝に朱印状を送り

丹後国領知方之事、国中無所無遂糺明、諸給人手前、面々指出
之員数無相違充行、於余分者、其方任覚悟、軍役巳下速可申付
候也         長岡兵部大輔殿     信長(朱印)

丹波国での領地の調査を命じ、新たに服属した土豪たちの知行地
や軍兵動員数等を調べさせます。

この頃には、藤孝の努力の成果か、とりあえずは丹後全体に細川
氏の統治権が行き渡ったようですが、光秀、信長亡き後、南丹
に影響力を保持する、一色義定を謀殺していることからみても、
その支配が不完全なものであったことがわかります。


光秀と藤孝の間には、このように丹後国統治に関して、微妙で複雑
な軋轢があったことは確かで、藤孝が本能寺後、光秀の動きに同調
しなかった一因になったと思われます。