惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

続濃州余談①



天正四年正月、信長は安土城の築城を家臣に命じます。前年十一月
には、織田家家督を信忠に譲り渡し、岐阜城から、茶道具のみを持
参して、佐久間信盛の屋敷に移っています。

信長の安土城築城への意気込みが伝わってきます。

津田坊(織田信澄)は、信長を喜ばせようと、蛇石という巨石を持参
しますが、山頂部に引き上げるのに苦労した様が「信長公記」内に記
されています。

この頃には光秀の坂本城は完成しており、当時としては最大級の城塞
であったことが、宣教師の残した記述からわかります。

城塞に備わる基本建造物である天主は、松永久秀が大和の多聞山城
に建造したものが最初であるといわれ、最上層部に瓦が葺かれていま
す。

それ以前は、瓦が屋根に葺かれているのは寺院のみで、松永久秀
独創性と芸術的センスの良さがみてとれます。
大和国には、唐人を先祖に持ち、寺院の瓦を作製する工人集団があり
、久秀はこれらの技術力を活用しました。

坂本城にも天主が存在し、瓦が葺かれていましたから、これら最先端
の建築技術は、多聞山城や坂本城の築城でより精緻となり、安土城
で生かされたことがわかります。

信長が完成した天主に移り住むのは天正七年ですから、巨大天守
の完成には多大な困難があったと思われます。

安土城跡からは金箔瓦が出土しています。織田信忠が譲り受けた岐
阜城跡や次男織田信雄の伊勢松ヶ城跡でも、金箔瓦が出土しており、
織田信澄の高島城跡からは、同型の普通の瓦のみしか出土しておら
ず、金箔瓦の使用が、信長直系一族にのみ許された特権であったこと
がわかります。

安土城は、信長亡き後、信長の家族がすぐ逃げ出したことからも、そ
の防御性は極めて低いものであったと思われます。

安土城は、近江の陸上交通路と琵琶湖の海上交通路の中継点の立地
にあり、ここに富が集積すべくつくられた商業都市のシンボルでした。

松永久秀に始まった、天主を核とした城塞建築技術は、光秀に受け継
がれ、安土城で花を咲かせ、藤堂高虎等を経て完成度の高いものにな
ります。(濃州余談㉒)


安土城金箔瓦
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