続濃州余談①
参して、佐久間信盛の屋敷に移っています。
信長の安土城築城への意気込みが伝わってきます。
津田坊(織田信澄)は、信長を喜ばせようと、蛇石という巨石を持参
しますが、山頂部に引き上げるのに苦労した様が「信長公記」内に記
されています。
この頃には光秀の坂本城は完成しており、当時としては最大級の城塞
であったことが、宣教師の残した記述からわかります。
城塞に備わる基本建造物である天主は、松永久秀が大和の多聞山城
に建造したものが最初であるといわれ、最上層部に瓦が葺かれていま
す。
それ以前は、瓦が屋根に葺かれているのは寺院のみで、松永久秀の
独創性と芸術的センスの良さがみてとれます。
大和国には、唐人を先祖に持ち、寺院の瓦を作製する工人集団があり
、久秀はこれらの技術力を活用しました。
坂本城にも天主が存在し、瓦が葺かれていましたから、これら最先端
で生かされたことがわかります。
の完成には多大な困難があったと思われます。
阜城跡や次男織田信雄の伊勢松ヶ城跡でも、金箔瓦が出土しており、
織田信澄の高島城跡からは、同型の普通の瓦のみしか出土しておら
ず、金箔瓦の使用が、信長直系一族にのみ許された特権であったこと
がわかります。
安土城は、信長亡き後、信長の家族がすぐ逃げ出したことからも、そ
の防御性は極めて低いものであったと思われます。
にあり、ここに富が集積すべくつくられた商業都市のシンボルでした。
松永久秀に始まった、天主を核とした城塞建築技術は、光秀に受け継
ります。(濃州余談㉒)
安土城金箔瓦