惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ④)



天正八年八月、信長は佐久間信盛、信栄(定栄)父子に自筆の覚
書を与え追放します。

抗弁する術もなく二人は高野山に追いやられますが、織田家にとり
最重要な事柄であり、秘密裏に遂行されました。

佐久間信盛追放劇はすでに詳しく述べています。(光秀とその日常
⑧)

本願寺との戦いに勝利した、信長の目指す織田家領国統治の新た
なる枠組みは、織田家一門を軸とする、平清盛が構築した平家政
権に似た、門閥政治だと思われます。

信長は織田家躍進の功労者をあっさりと捨て去ります。何か他にも
っといいやり方がなかったか、と思いますが、このあたりが政治家と
しての信長の限界でした。

信長はその覚書の第三項に

丹波国日向守働、天下之面目ヲホトコシ候、

とあるように、光秀を織田家家臣団の一番目にあげ、その働きを褒
めています。これは信盛の後継者として、光秀を名指ししたもので
すが信盛追放後、その与力の多くが光秀の与力となります。

本願寺の為構築された軍団が、畿内方面軍と呼ぶにふさわし
いものとなり、光秀がそれを統括することとなりました。

信長は、早くから畿内織田軍の中心人物として光秀を捉えており、
細川家、荒木家、筒井家との縁戚関係はその為の布石でした。

信盛追放は既定方針であり、それを易々と許した信盛の愚かさが
目に付きますが、それは織田家の大番頭としての限界だったので
しょう。

天正八年十二月廿五日、信長は土佐国長宗我部元親宛に書状を
出します。

就大阪属存分音間、殊伊予鶏五居到来、遠境懇情不斜候、
隣国千戈事、彼是惟任日向守可申候也、謹言

         長宗我部宮内少輔殿       信長

本願寺が降服して、元親が信長に贈答をした際のお礼の書状です
が、遠国から、懇ろな品を受け取り大変嬉しく、恐らくは毛利との
戦闘については、光秀から述べさせる、とあります。

光秀が、、長宗我部と信長の間の取次ぎをしていることがわかりま
す。

信長公記」によれば、同年六月にも、元親は光秀の取次ぎで、鷹
、砂糖を贈っており、砂糖は馬廻り衆が拝領したとあります。

同年九月には、信長は光秀と滝川一益に命じて、寺院が多く、複雑
な土地所有が残る、大和国での土地調査を行っています。

兵一万を率いた半ば恫喝的な調査であり、本願寺勢力を駆逐した後
、休む間もなくその矛先が、興福寺等の南都の大寺院に向かってい
ることがわかります。

寺社関係の複雑な仕置きに携わる光秀の姿から、本当にこの人は
オールラウンドプレーヤーなんだ、と実感します。


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