惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ⑤)



天正九年三月一日、正親町天皇は、上臈御局(花山院家輔娘)に勅
書を持参させ、信長のもとに派遣しました。

信長を「左府二被仰出由」、すなわち左大臣に任じるとの勅定でし
た。(立入左京亮入道隆佐記)

信長は天正六年四月、右大臣を辞しており、その折の奏達状には

當官事次第之昇進雖可浴恩澤、征伐之功未終之条、先欲辞一官
--------四海平均之時、重應登用之勅命、致棟梁塩梅
之忠矣、然者以顕職可令譲与嫡男信忠之由、--------

と書かれており、公卿達は飛鳥井邸で対応を相談しました。

信長は、全国平定戦がいまだ終わらないので、官位を辞すと言い、
全国が平和になったら、重ねて登用の勅命に応じると言っています
織田家棟梁はすでに家督を譲られた信忠ですが、実際は信長の
按配次第でその官位が決まるのでしょう。

要するに、既に信長にとり、官位は重要度の低いものになっており、
この左大臣就任要請に対して、信長は正親町天皇の譲位を交換条
件に持ち出します。

信長に対して不安感の拭えない正親町天皇グループの申し出を、逆
手に取った信長の強引さに

参下御所、中山黄門・水無瀬黄門其外各参會、御譲位之事、於右
府信長其沙汰也、然間各内々御談合云々

と「兼見卿記」にあるように、公卿たちは御所に集まり、信長の指示
である譲位に対して、内密に相談します。

藪蛇状態に陥った朝廷は、今年は金神の方であるからと出任せの返
答をして、譲位を延引します。

同年二月、信長は天皇の勅命により、都で盛大に馬揃を開催してお
り、相互に好機到来と思ったのでしょうが、その思惑は大きく食い違
っていました。

光秀は、信長の指示により、この馬揃の奉行を行っています。どうも
光秀は兼見にも参加するよう求めたようで、兼見は驚いて坂本に行
き相談しています。

兼見は迷惑であると伝えますが、光秀は病気であったようで(仮病
か?)会えず、偶々坂本に滞在していた細川藤孝を通じて光秀は異
見を述べています。要するに信長の指示であるからやむなしといった
ところでしょう。

翌日兼見が近衛前久を訪問すると、前久はやる気満々で乗馬の練習
をしており、兼見はがっかりしています。

後日、兼見は自邸にある春日馬場を光秀、藤孝、宮内法印らの乗馬
の練習場所に提供します。(明智資料㉓)
その成果があったのか、兼見は馬揃に参加せずにすみました。

信長と正親町天皇との関係は又しても冷え切り、その亀裂はさらに大
きなものになりました。