惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ⑥)



天正九年正月六日、細川藤孝は兼見邸を訪問し、その後坂本城の光秀
のもとに赴きます。

長岡兵部大輔来、--今日於坂本惟任日向連歌興行之由雑談ーー及
深更出京了

と「兼見卿記」にあるように、光秀の連歌興行に参加するのが目的でした
が、藤孝の近江滞在は長期にわたったようです。

同月十三日、兼見は坂本の光秀を訪ねますが

次細川丹波守爲使来伝、早々下向過分也、近日所勞之間------

藤孝の使者が来て来訪を労い、光秀が病気で対面できない旨兼見に重
ねて伝えています。

都に戻った兼見は、十五日に安土で近衛前久が参加して御馬沙汰があっ
たことを聞きます。

これは信長が、堀ら側近に命じて馬場を普請させ、恐らくは駿馬に爆竹を
引かせ、乗馬して馬場内を駆けさせたと思われ、その後安土城下へ繰り
出しています。信長らしい派手な趣向ですが、「信長公記」に

御結構ノ次第、貴賎耳目ヲ驚カシ申スナリ

とあるように、庶民にも大好評でその噂は都にも伝わりました。

ここで重要なのは、なぜこの馬沙汰が都での大規模な馬揃となっていくの
かですが、前年本願寺勢力を完全に屈服させ、摂津等の本願寺系の海運
勢力を支配下に置いた信長は、すでに手中におさめた越前での海上利権
とあわせて、消費地である畿内尾張等への物流ルートを完全に掌握し、
自国産物の流通体制を確保する必要のある遠隔地の大名たちを、その隷
属下においていきます。

遠隔地の大名、例えば伊達家などにみられるように、織田家の臣下となる
証にその国の駿馬や鷹を安土に送りました。

信長はそれら名馬だけではなく、関東から矢代勝助を招聘し乗馬の礼法を
学びます。関東には源頼朝以来の騎馬の作法がある程度残っていたのでし
ょう。

信長には自己の成果を大々的にアピールし、残存する敵対勢力である武田
氏や毛利氏の戦意を挫く目的がありました。

都での馬揃は信長側から仕掛けたと思われ、信長は光秀に朱印状を与え、
その用意を命じています。

その内容は「立入道佐記」や「三宝院文書」内に残り、光秀は受け取った書
状を書き写し、多くの関係者に配っています。

先度者、爆竹諸道具コシラエ、殊キラヒヤカニ相調、思ヒヨラス音信、細々ノ
心懸神妙候、然者、重而京ニテハ、切々馬ヲ乗可遊候ーーーーーーーーー
其方之事ハ不及申ーーーーーーー其方請取可申触候、於京都陣参被仕候
公家衆、-----------

        天正九年正月廿三日     惟任日向守殿   信長(朱印)

光秀与力の江州衆の多くが安土の馬沙汰に参加しており、光秀も参加する
はずだったのが病気で出られなかったようです。これは兼見の日記から確
認できますが、今度は光秀のことは言うに及ばず、光秀が触れを出して公家
衆を参加させるよう命じています。

光秀も病み上がりのなか厄介な仕事を押し付けられたものです。(光秀戦
闘史Ⅱ⑤)
朝廷は二月六日、勅命をもってこのたびの都での馬揃を信長に命じます。

信長は二月二十六日突如上洛し内裏の東に南北四町、東西一町の馬場を
造ることを決めます。

正親町天皇と信長の駆け引きが開始され、信長の思いつきが徐々に政治問
題化していることがわかります。

ここで何を血迷ったのか朝廷は信長に左大臣就任を要請してきます。

信長の気持ちの中には、全国平定の過半はなった、との認識があり、その気
持ちの発露が、各地の大名から隷属の証に贈られた駿馬を、都で朝廷に見
せつけるセレモニーであったのですが、そこを読み違えた正親町天皇は左大
臣を与えることとし、信長にあっさりとそれを蹴られ、逆に譲位を要求される羽
目におちいりました。

光秀は馬揃の奉行としてこれら一切を取り仕切っており、表向きの派手やか
さとは裏腹なチキンレースに付き合わされる羽目になりました。

光秀、藤孝そして光秀娘婿忠興は頻繁に安土、坂本、都の間を行き来してお
り彼らが対朝廷工作の任に当たっていたことは確かで、これらに失敗した明
智家ファミリーは朝廷、信長両方から信任を失ったと言えるかもしれません。

いずれにせよ、この一連の行事は信長の思い付きからでたものであり、光秀
らも信長の真意を、読み取りにくくなってきていたと推測されます。


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