惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ⑳)



天正十年三月八日、吉田兼見は朝廷より、出陣した信長の為、戦勝祈祷
を命ぜられ、即日修行にはいります。

廿三日結願し、兼見は鈴鹿喜介を使者として、森乱宛に書状を出します。

就御進發、御祈祷義爲、禁裏被仰出、十七日致修行、勝軍治要之御祓
進献上候、随而御道服進上仕候、不苦候者可預御披露候 恐々謹言

                     森乱殿            兼和(花押)

禁裏からの申し出で、戦勝祈願の御祓いを献上したとあり、あわせて道服
を信長に進上しましたので、ご披露のほどよろしく頼みます、とあります。

森乱(成利)が取次ぎとして、信長の身辺の差配をしていたことがわかりま
す。

道服とは、大納言以上の公卿が、私邸などで着用した上衣で、現在の羽織
りの原型となるもので、室町時代から使用されるようになりました。

立派な箱に入れて贈っていますが、森乱、近衛前久、光秀らには御祓い済
みの手綱、腹帯を贈っており、森乱が太政大臣近衛殿と同列にあるのが大
変興味深いです。

森乱が信長近習として活躍しているのがわかります。

兼見は日記の中で、この年若い人物を森御乱と記して近衛前久や光秀の
前に置いています。

十七歳にしては、信長も抜擢がすぎるのではと思えますが、森乱が権力中
枢にいて、信長周辺の公私にわたり、とりさばいていたことは確かでしょう。

光秀が森乱と反発した間柄であったとの記述は多数存在します。
しかし、史料のなかから、そのような事実を見つけることはできません。

森乱の父可成は、嫡男可隆とともに、浅井・朝倉との戦いで討死しています。

森家は長可が継承していくのですが、この森家と光秀の明智家とは深い関
係があります。美濃系の森氏は、近江から美濃可児に土田氏らとともに移住
していたと考えられ、地頭明智氏支配下にあったと「新撰美濃史」に記さ
れています。

又、父可成の戦死後、その家臣団は光秀の指揮下に編入されます。森氏の
中核的家臣である、各務氏、林氏、宮地氏らはその時のメンバーなのですが
、それを可能にしたのは、光秀が森氏の主筋にあたっているからかもしれま
せん。

兼見の日記内の記述を見る限り、光秀と森乱の間に、後世いわれている様
々な確執が、存在している形跡はありません。


美濃可児可成寺 森乱墓石 左右は力、坊、墓石
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