惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ㉑)

 
 

天正十年三月二十八日、諏訪に在陣中の信長のもとに、甲斐を制圧した

信忠が挨拶の為到着します。

信長はこれにあわせて、傘下の軍を解散させ、国元への帰陣を命じます。
信長公記」によれば

駿河遠江ヘ御廻り候テーーーーー諸卒是レヨリ帰シ申シ、頭バカリ御
供仕リ候ヘト仰セ出サレ、御人数、諏訪ヨリ御暇下サル

とあり、翌二十九日には、兵士のみではなく、惟住(丹羽)長秀、堀秀政
らの側近、武将にも暇を与え、彼らは草津へ湯治にでかけます。

武将、兵士らは思い思いに木曾口、伊那口より帰陣しますが、光秀が信
長の元を離れたとの記述はなく、やはり旧敵領ですから光秀軍が信長や
近衛前久らの警護にあたっていたと思われます。

四月五日に、吉田兼見は従軍中の明智秀慶邸を訪問しています。同十五
日には、兼見は信長からの返事を、鈴鹿喜介から受け取っており、同時に
光秀、森乱、近衛前久からの返事もあり、彼らが甲斐国内においても行動
を同じくしていたことが確認できます。(光秀戦闘史⑳)

信長らは、四月廿一日に安土へ凱旋します。

「言経卿記」によれば、山科言経らは二十五日

近江安土城早朝發足ーーーーー  とあるように、信長の到着を待って安
土へ赴き、二十六日 御城爲御礼ーーーーー と楠長安の案内で登城しま
すがさすがに信長も疲れていたのか、お目見えはなかったと記しています。
言経は、安土城にははじめて行ったようで

御城見事言語道断、先代未聞結構ゝゝ、不及筆舌了

とその見事さを絶賛しています。

信長らは、甲府では信忠が信玄館内にもうけた御殿に逗留し、まさしく信
長自ら述べたように、物見遊山の旅を続けます。(光秀戦闘史⑮)

ほぼ同日、恵林寺が焼討ちされており、信長の許可のもと実行されます。
その後、駿河遠江と旅は続きますが、徳川家康

万方ノ御心賦、一方ナラヌ御苦労、尽期ナキ次第ナリ

とあるように、最大限のもてなしで信長の長旅を癒しました。都へ人を遣わ
し珍しい食べ物を取り寄せ、

御泊ノ御屋形立テオカレーーー と宿泊の為の屋形を新築し、道の辻
辻に隙間無く茶屋を設け、織田御一行様をもてなしました。

信長公ノ御感悦申スニ及バズ とあり、信長は浜松に到着すると、小姓、馬
廻り衆にもすべてに暇をだし、先に安土にむかわせます。

御弓衆、御鉄砲衆のみが残り、お供をしたとあり、光秀の部隊が護衛をして
安土まで同行したと思えますが、それを裏付ける史料はありません。

しかし「多聞院日記」には、筒井順慶は四月廿一日に大和国に帰還したとあ
り、兵士を先に帰した単独での帰還でした。このことからも光秀が行程の最
後まで、信長とともにあったことはほぼ確実であると思われます。

この軍旅の中で信長は光秀に、足蹴にしたり、額を打たせたとか、欄干に頭
を押し付けたなどの、暴行を行ったとあります。少人数になっても最後まで旅
を続ける両者の間には、そのような出来事がなかったことは明白でしょう。
 
家康の接待は豪華なもので、御屋形を新築し、御茶屋で茶をもてなし、舟橋
を設置し、風呂まで作り、信長を満足させます。

五月、家康は信長に駿河拝領のお礼のため、安土を訪問します。

今度徳川、信長爲御礼安土登城云々、惟任日向守在庄申付云々

と兼見が記しているように、信長は家康の接待を光秀に命じ、坂本を動か
ず尽力するよう指示しています。光秀も家康からの歓待を受けた一人だっ
たのでしょう。

最大限の歓待を家康から受けた信長は、家康接待を光秀に命じることで、
織田方の最大限の誠意をみせています。

信長は光秀を、この時点でも重要視していたことがわかります。


舟橋
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